40年間咲き続けた湿板法という名の花

掲載日:2014年8月12日

※本記事の内容は掲載当時のものです。

1枚のモノクロ写真がある。そのモノクロ写真からC、M、Y、Bkの4色を使用してカラー印刷物に色再現するのが人工着色の技術である。

人工着色の可能性は、日本人の手さきの器用さ、工芸的センスによって拡大され、実用化されたものと思われる。版画や日本画・染色・織物・陶芸などに伝統的に養われてきた、繊細にして華麗な技術は、外国より輸入した写真製版の技術を日本的ユニークさで開花ささせた。その特長的なものがHBプロセス法である。この方法は、アメリカで写真製版法の特許をとったウイリアム・ヒューブナーとブライシュタインの頭文字のHとBを組合わせたものである。通常、湿板レタッチ法は、このHBプロセスをいう。

湿板写真法は日本では「なま撮り写真」とか「ガラス写しの写真」と呼ばれた。湿板写真とは文字通り、感光板が濡れている時に感光する写真で、その主薬は沃度化合物を主体とした、いわゆる沃化銀と称するものである。
プロセス製版変遷史(「印刷情報」1981年4月号)の中で、山下喜代治氏は次のように語っている。

写真撮影用の感光剤沃度コロジオンを塗布する硝子板(今のようなポリエステルフィルムではなく、その時分は種板といって、撮影用の写真版は全部磨き硝子板である)の洗浄と、卵白水溶液の下引き作業が準備作業の一部だが、これがなかなか大変な仕事であった。俗に『硝子板洗い3年』といわれるくらい骨が折れた。」

ガラス板洗いは、当時の見習いカメラマンの修行のひとつとされていたのである。

表1
表1:技術革新の主要な年表(レタッチ関連)

日本にHB法の特許と製版装置が購入されたのは、大正8(1919)年の7月で、最初のHB式の製版装置は大阪市西淀川区海老江の市田オフセット印刷株式会社の工場に設備された。大正9(1920)年の末ごろからHBプロセスの印刷物が現われるようになった。以来、HBプロセス法(湿板レタッチ)はレタッチ技術の主流として40年間も続いたのである。

この湿板レタッチ40年の技術は末期には、フィルムマスキング法と重曹しながら、昭和35(1960)年頃まで現存した。
日本の製版がフィルム化にたちおくれたのは、太平洋戦争による主要都市の戦災、印刷会社の壊滅、技術情報や資材の入手困難等が影響したといわれている。カラーフィルムが日本で原稿として使われ始めたのは昭和25(1950)年頃であるから、人工着色レタッチは、それまでの印刷物に主要な役割を果たしたといえよう。

表1、表2は、製版の技術革新の要約である。(主としてレタッチに関連のものを中心にまとめた)。

表2
表2:プロセス製版技術革新年表

『続・レタッチ技術手帖』(社団法人日本印刷技術協会、坂本恵一)より
(2003/03/28)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)