※本記事の内容は掲載当時のものです。
ナンデモQ&A:その他
Q:四六判・菊判の語源を教えてください。
A:四六判
江戸時代以前から半紙は多くの人々に親しまれていましたが、その寸法は約1尺1寸×8寸(333mm×242mm)でした。しかし、大名の中には一般に使われているものより、やや大きめの半紙を作らせていたところもあり、特に尾張家の美濃で漉かせた紙は、1尺3寸×9寸(393mm×273mm)で有名でした。これが、明治維新になって全国的に流通し、美濃判ブームを起こし、日本在来の標準判となり四六判の原点になったといわれています。
明治になり、用紙が輸入されるようになりましたが、その中でイギリスから輸入されたクラウン判の変形(31インチ×43インチ):787mm×1092mmが、ちょうど美濃判のちょうど8倍の大きさ(2尺6寸×3尺6寸):788mm×1091mmだったことから重宝され「大八つ判」と呼ばれて普及しました。
印刷術が一般化されるにつれ、この大八つ判が多くの出版物にも用いられるようになっりましたが、32面に断裁して化粧断ちすると、ちょうど横4寸×縦6寸の書物になったことから、いつしか大八つ判が四六判と呼ばれるようになりました。
菊判
新聞印刷用には、明治10年代前半頃まで、ドイツから輸入された紙(700mm×1000mm)の四つ切が使われていました。この紙の寸法が2尺3寸×3尺3寸で日本古来の半紙(1尺1寸×8寸の8倍に相当するので、大八つ判に対応して、最初は「半紙八つ判」と呼ばれていました。これも尺寸法に下1桁が重なるということからも、いつしか三三判と呼ばれるようになりました。
明治の中頃になると、新聞記事も次第に豊富になり、紙面の大きさが三三判の四つ切では満足できなくなり、当時日本橋区通り1丁目にあった川上商店が、アメリカン・トレーディングカンパニーから、アメリカの標準判24インチ×36インチ(2尺×3尺)の縦横それぞれ1インチ増した、25インチ×37インチ(2尺1寸×3尺1寸):636mm×939mm判を取り寄せてその半裁判を新聞用紙に当てることにした。プラス インチとしたのは、当時の「せんか紙」の4倍となって都合がよかったためといわれている。これが、三三判に代わって次の新聞用紙の主流になりました。この新しい用紙のPRのために、新しい名称をつくる必要がでてきました。当時その紙のアメリカの商標がダリアだったことや、新聞の「聞」の字がキクと読めることから,菊の花の標識を付けて、「菊印」の名称で売り出したといわれています。
これも、後に新聞以外の印刷にも使用されるようになり、いつしか菊判で通用するようになったといわれています。
日本印刷新聞社発行 野村忠義著「上手に付き合う印刷紙」より
(2001年10月1日)
(印刷情報サイトPrint-betterより転載)