お釈迦様に説法かもしれませんが「哲学は知恵を愛すること」、とよく言われます。だとすると、私の周りにも多い哲学することが苦手な、あるいは哲学に無関心な日本人は、知恵を愛さない人たちなのでしょうか? 私は、それは見かけ上のことだ、と思っています。科学的なものごとの見方と共に、哲学的なものごとの見方は、私たちが美しく生きるために役立ちます。ともあれ食わず嫌いを克服しましょう。
科学的な知識と哲学的な知恵は、何が違うのでしょうか? それは問の立て方の違いなのです。自然科学における問の立て方については、すでに2.1項の(1)で説明しました。(自然)科学では、何故そうでなければならないのか?については問わないのです。言い換えると価値の問題は問わない、ということです。
一方、哲学の場合は、命とは何か?真とは何か?善とは何か?美とは何か?など、自分の生き方に結びついた問を立てて熟慮します。従って哲学における問は、価値の問題を含むその人独自のものであるために、過去の多くの哲人たちの業績を知ったうえで、自らの問を熟慮して答えを出すのが正しい態度ということです。
いずれにしても一般人である私たちは、最先端の問に自らチャレンジするという立場ではありません。自らの問に対しては現時点での自らの思い(自らの仮説)と、例えば Wikipediaなどに期待される標準的な知識や知恵を参照し当面の回答を見つけ出せばよい、というのが筆者の考え方です。ここでは自らの思いを先に自覚しておくことが何より も重要です。
私たちの祖先は、紀元前の昔から洋の東西を問わず『美』について哲学してきました。その一端をWikipediaで検索して見てみようと思います。
1]『美』
美とは、価値観念、価値認識の一つである。人類において普遍的に存在する観念であり表象であるが、文化や個人の主観の枠を越えて、超越的に概念措定しようとするとき、 明確に規定困難であり、それ故、美には普遍的な定義はない、とも形容される。しかし、美は感性的対象把握において、超越論的に人間精神に刻印された普遍概念であるとも解釈できる面を持っており、美の定義は発散するが、美の現象・経験は世界に遍在してあるという存在自体が成立する。・・・・・
美という言葉の多様性:哲学における「美」の概念と、それがいかなるものであるのかの議論は、・・・・「美しい」とは何を意味しているのか、「美」という言葉が持つ「意味範囲」のある程度の明確な把握を前提とする。
例えば、古典ギリシャ語における「美(Kalon)」という言葉は、通常の国語としての日本語で使う「美」の意味とは異なる意味範囲を持っているのであり、同様に、ラテン語の 「美・美しいこと(pulchrum)」も、古典ギリシャ語の「カロン(美)」とは、また違う意味範囲を持っている。異なる言語のあいだで、まったく同じ意味内包を持つ言葉はそもそも存在しないのであり、プラトンが「美」について何かを論じている場合、それは古典ギリシャ語の「カロン」について語っているのだということは重要である。
「美」に関連した概念として、「徳」という価値概念が、プラトンによって論じられているが、「徳」に当たる古代ギリシャ語「アレテー」は、日本語の「徳」にはない特殊な意味があり、それは英語のVirtueにもまたないものである。しかし、ラテン語のVirtusは、「アレテー」の含意とほぼ重なる意味範囲を備えている。
このように、言語において同じ意味内包の言葉はないのだという自覚なしに、異なる言語での「美」に相当する言葉について論じられた思索や議論に言及することは、そこに危うさを伴っている。・・・・
漢字における「美」の含意:日本語で使われる「美」の文字は漢字であり、中国において二千年以上前に発明されたものである。この「美」という漢字は、「義」や「善」と同様に、一種の要素合成によって造られており、それぞれ上半分は、「羊」という文字である。「羊」と「大」の合成が「美」であり、「羊」と「我」の合成が「義」である。孔子の『論語』の中にも記されているが、「羊」は宗教的祭式において献物として利用された動物で、「犠牲の動物」の意味があり、そこから「羊」を要素とする合成漢字には、「犠牲」の意味が含まれている。あるいは、「犠牲」の意味を持つ概念を表現するために、これらの漢字は合成され造られたとも言える。
「義」とは「我の責任の限りの犠牲」という意味があり、「善」は、「儀式の祭具に盛る限りの犠牲」という意味があるが、「美」とは「大いなる犠牲」である。この場合の犠牲とは、「自己犠牲」であり、共同体の運命などに対し、人間として行える最大限の犠牲、つまり己が命を献げるという含意があり、言い換えれば、人の倫理の道において、最も崇高な行いが「美」であったのである。
(以上、Wikipediaより)
2]美学
検索辞書:大辞林には、
美学とは、美の本質や諸形態を、自然・芸術などの美的現象を対象として経験的あるいは形而上学的に研究する学問。現在では芸術学ないし芸術哲学が主であるが、もとは感性的認識を論ずる哲学の一分野であった。補足として明治期には「審美学」とも言った
と出ています。
現在わが国の芸術学部などでは、美学概論として美学の基礎を築いたドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)の『判断力批判』から学ばせるところも多いようです。そして『美学』という本を最初に出版したのは、同じドイツの哲学者アレクサンダー・バウムガルテンで1750年のことであるとされています。
日本語Wikipediaの『美学』の項の中に、『日本の美意識』の説明がありますので引用したいと思います。
近代以前の日本には、西洋のような一貫した形での思索の集大成としての「美学」はない。しかし、いき、わびなどの個別の美意識は、古くから存在しており、また茶道や日本建築、伝統工芸などを通し、さまざまな形で実践されてきた。
また、歌論、能楽論、画論などの個別分野での業績はあるものの、孤立した天才の偉業という色彩が濃く、一枚岩の美学ではない。これらの美意識は、自然と密接に関連しているが、西洋美学は、近代以前はもっぱら「人間」を中心にすえた「芸術」のために発展した。
そのため、日本の美意識は、西洋美学の視点からは、十分に記述・説明することができない。近代以前の日本のものごとについて、「芸術」という視点を持つ美学から論じると、学問的文脈を無視した議論となり、慎重を期すべきである。日本人自身も、日本の美意識を、明快に定義・説明することが困難なのが現状である。今後、複数の視点を活かした研究が待たれる
と解説されています。
以上の指摘はかなり重要で、このレポートでは後節で議論することになる『より美しい自己実現』と、そのために必要な『和魂洋才』再構築の議論の参考になります。先に、明治期にあっては美学を「審美学」と呼んだこともあったと述べましたが、その名付け親は和魂洋才の旗手 森鴎外だそうです。
2006/12/18 00:00:00