ヒラギノ ショック をどう考えるか 暫定版に述べたように、Mac OS X において標準フォントがヒラギノ系になることは、フォントの良し悪しや好き嫌いを越えた意味があると思う。ここでは野次馬的に騒ぐのが目的ではないので、これは一体どのくらい大きな問題なのかを取上げる。皆さんがどのフォントを支持しようとJAGATは関与するつもりはないが、せっかくだから大いに議論が盛り上がることを期待したい。
タダでヒラギノが使えてうれしい、というのは議論としてはミミッチすぎる。まず今回のことは時代の変化を示していることを考えねばならない。それはOpenType時代の幕開けである。それまでのOSフォントは、「それらしい」ものが揃っていればよかったという時代から、しっかりした仕様のものが備えられるようになる。今まではフォント開発者からするとOSメーカーに提供した後は、フォントメーカーはユーザを直接サポートするなどのかかわりができなかった。これは納品したフォント開発者にも不満が残ったところだったかもしれない。これはアップル側がフォントを大切にするという考え方の変化を現していると思う。
OpenTypeになると(おそらく)メトリックスもユーザ側が参照できるように精密なフォント利用が可能になる。特にDTPはこのことが大切で、ユーザ側の議論としては、OpenTypeの利用価値を議論する必要があるだろう。しかしOpenTypeは今までのPostScriptもTrueTypeも包含するもので、高品位フォントはみなOpenTypeとして引き継がれるであろうから、長期的には大日本スクリーンだけが特別有利と言うことはないが、スタートは一番手になりそうだ。
そもそもOpenTypeはマイクロソフトとAdobeが提唱しているものなのに、Mac OSで利用が広まるとすると、これも面白い話しだ。モリサワもOpenTypeの準備はしていただろうが、モリサワはAdobeの方ばかりを見ていたのであろう。つまりフォントに関してAdobeとAppleは別の見解で動くのか、どちらのリーダーシップが優るのかというのも面白そうな議論である。しかし今更AdobeとAppleが喧嘩をすることはないだろうから、モリサワと大日本スクリーンが代理戦争を展開することにもならないだろう。
歴史的経緯からすると、AppleのLaserWriterがモリサワのPostScriptの出発点でもあった。このお蔭でリュウミンは日本のDTPの世界では一番有名なフォントになった。この間モリサワが経験してきたことは、書体を気にしない人はフォントの市場にはならないことである。だからバンドル書体が書体の知名度を高めることは事実としても、それで満足する人が新たな市場を切り開くかどうかは疑問である。フォントビジネスの議論もしてみるとよい。
さらに言うと書体にセンシティブな人はいくら平成明朝がタダでも頻繁に使うようにならなかったのだから、ヒラギノもOSのお墨付きだから理解されるのではなく、ヒラギノのクオリティで勝負に出ていると見るべきである。リュウミンもデフォルトフォントの地位が仮になくなったとしても、独立して商品になるフォントファミリーになったのだから、利用者としてはOSの件はヌキにして、もっと深いフォント批評に意識を傾けた方がよい。
最後に商売をしている立場から考えると、昔はフォントは写植屋の財産であった。それがあるから注文が来た。それはDTPになっても似たようなもので、出力センターや印刷会社はフォントを揃えて客を呼んだ。これが破綻して、ホスト側のフォントの時代になるのだろうか? これも冒頭の大きな時代の変化の話しにつながる。
発注者は必要なフォントは買うであろう。しかし「デザイナもフォントを買えばいいじゃん」てな具合になるのだろうか? ほんの少ししか使わないフォントはどうハンドリングすればいいのかについては大いに議論の余地があるであろう。
もう10年前のようなフォントハングリーな時代ではないのだから、過去の決り文句のようなフォントに関するボヤキや希望や想い入れを繰り返しても意味がない。これを機に新たな段階のフォント議論が起こってほしいものである。
2000/02/21 00:00:00