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無視された夢想家  DTPの出現 1985年

DTPの過去・現在・未来 その2 
1997年7月31日T&G研究会ミーティング「DTPの発展を検証する」より (社)日本印刷技術協会 理事 小笠原 治
DTPの過去・現在・未来 その1参照

DTP前夜の1984年頃は、プリプレスの世界ではCTPが最も目立っていた。その頃ジョナサン・シーボルトが面白いことを言っていた。ハイエンドの機器開発よりも例えば誌面をグラフィック化するとか,編集の柔軟さをもたらすとか,誌面のグラフィック化・編集の柔軟さによって,出版物の販売戦略をどうするかを考えなきゃいけない。テクノロジーを生産性ということだけでなく,記者や編集者がパーソナルなツールを作って,よいメディアができるようにしていく必要があると強調していた。このころはその発言はほとんど顧みられなかった。

1985年になって一番最初にDTPなるものを見たときのことを、JAGATの機関誌PIのレポートの中にも書いたが,内外ともあまり話題にはなっていなかった.なにしろANPAの展示においてもDTPという言葉はなかったし、看板もなかったからである.あとで振り返ってみれば、それがDTPの始まりだったのだな、という程度なのだ。1985年に出ていたのは,左にMacとレーザーライタがあって、右に印画紙出力のライノトロン101があり、その間に袖机よりちょっと大きいPostScriptRIPがあって、その中にアウトラインフォントを持たす形だった.

これは非常に説明がしずらかった。当時レーザーライタ自体があまり日本にないので,言ってもわからなかった.またMacの画面もビットマップフォントであり、それ以前と何の変化もなかった。ライノトロン101はそのちょっと以前からあったが、RIPといってもモトローラ68000を使った「箱」であって出力のコントローラにしか見えなかった.そのようなものはどのシステムにもあったのである。

一年後の1986年だったか、一番最初にDTPとしてのカタログがライノタイプ社で作られた。ライノのシリーズ100がシステムの総称で,ライノトロンの写植機とMacとが並んでいた.その時に出力サンプルも配られたが、PostScriptのコードで書いて,グラフィックも全部切り貼りなしで出したものであるという注釈が見慣れないものである以外、これといって人目をひくものはなかったのである。

日本の事情

Macやレーザライタやライノトロニックで行われていることは、当時それほど衝撃的とは受け取られなかった.この程度のものならどの版下システムでもできと思われていたからだ。例えば日本の状況を振り返ると,XEROXのJ-Starでも1984年に出ている.出力体裁だけ見ると,StarのPDLであるInterpressでもPostScriptと同じようなものはできていた。 日本の印刷業界を見ると,東レFX500が1982年に発表された.1983年に日本電気N5170という電子組版機が出るという話があった.1984年に富士通がIPSを出すという話があった.大体文字とグラフィックスが統合的に扱えるものが出てくるくらいのことは,もう皆わかっていた.

1985年になると,Windows上で,例えばリコーのリンネット,松下電送がIWP(インテグレーテッド・ワークプロセッサ)というXEROXのJ-Starの簡便型のようなデモを行っていた.しかしこの当時のWindowsは専用システムへの組み込みOSであり、市販のパソコンの上で動くレイアウトシステムではなかった。NECのPC9801ではワードプロセッサ「松」の時代であった。またMacintoshは一部で話題になっていたものの、それはあまりにも非力であり日本語の版下作りに使う考え方はなかった。業務用としては、当時登場したアポロDOMAINやサン3の方が桁違いに期待を集めていたのである。キヤノンもUNIX上でTeX風の組版がWYSIWYGで操作できるEZPS5300を出した。つまりパソコンでDTPをしようという考えはなかったといえる。

もっぱら言語としてのPostScriptが話題

当時新技術として注目されたのは、レーザライタというポストスクリプトのRIPを含んだプリンタのみだったともいえる。このときはRIPという言葉はほとんどなくて,出力のPDLとして,ポストスクリプトが先に有名になって,その出力インタフェイスがRIPという感じだった。欧米は出力装置を作っていた会社の多くが,RIPのインタフェイスに対応を始めた。対応が非常にすばやかった。ただしWYSIWYGレイアウトシステムは欧米でもPageMakerのような洗練されていないものしかなくて,レイアウト専用機の足元にも及ばないものだった。ハイエンドのシステム(後のCEPS)やレイアウトシステムは,このころ完成間近だったのである。

むしろPostScriptに関心を寄せたのはプログラミングをする人達であって、このころはForthのような演算子を後置する言語がはやりだったので、それにPostScriptもうまく乗った感があった。このお蔭でPostScriptでいろいろなグラフィックを作るパソコンソフトが作られて、WYSIWYGのMacで使われるようになった。DTPが単にPageMakerでページをつくるという以上に,いろいろなことができるPostScriptというところに話が広がっていった。

XeroxのPaloAlto研究所からスピンアウトしてAdobeを作ったJohn Warnock や Chuck Geshkeは、XeroxのPDLであるInterpressとは全く異なるビジョンでPostScriptおよび製品を開発した。彼らはそれをXeroxで開花させようと思ったのだが、Xeroxの考えと合わなかったのである。
Xeroxはプリンタの速度を落とさない範囲で処理できる言語やRIPでないと商品にしない考えであるのに、PostScriptは当時のパソコン環境では重すぎるのを承知の上で、本来グラフィックアーツに必要な機能を盛り込むことを第一に考えたものである。

だからPostScriptのDTPはパフォーマンスがでないで、PC上のVenturaPublisherなどの方がオフィスには先行して入り、プリンタもHPのPCL言語が標準になっていった。それでもPostScriptを作った人達は、ハードもソフトもすぐに代替わりして、「遅い」といわれずに、「品質」が評価される時代が来ると信じて、その当時のマーケットに迎合してPostScriptの軽量化などをすることを拒みつづけていたのである。

2000/02/23 00:00:00


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