DTPの過去・現在・未来 その6
1997年7月31日T&G研究会ミーティング「DTPの発展を検証する」より (社)日本印刷技術協会 理事 小笠原 治
フォント戦争といわれた1989年のPostScriptType1とTrueTypeの戦いで、AdobeはType1のフォーマットを公開することでDTPという独自分野を守り通し、結果的に欧文フォントは一挙に増加した.今までの写植用のフォントデータはほとんどType1になってしまい、さらにインスタントレタリングなど版下に使うものはみんなType1で手に入るようになった。文字組版におけるDTPの使用環境は良くなり、DTPの組版も写植のプロ向きのものになっていった。DTPはモノクロ印刷分野では勝利を勝ち取った。
カラーについても実際にかなりカラーDTPが活用されるようになった.特に1988年にIllustrator88でカラーが扱えるようになったことで,少なくともドロー系のカラーが印刷物の上で増えてきた.一時ドロー系のカラーグラデーションが流行ったが、イメージセッタから出すと虹のように色のバンドが見えるとか、網点が汚いとかいわれていた。
PostScriptは必ずしもカラーの仕事にふさわしくはなかったが、一旦何らかでDTPを使うようになると,ページ全体をイメージセッタでやって,文字や図形や画像のシステムの間を行き来したくないという話が出てきた.イメージセッタでフィルム出しをする出力サービスビューロがたくさん出てきた.1990年の時点で,ニューヨークのマンハッタンという狭いところにライノトロニックが500台あると言われた。
DTPソフトはQuarkのXPressもバージョン3くらいになり,急速にプロ向けとして良くなっていった。以前サイテックスのビジョナリーという形でクオークはQuarkXPressをOEM提供した。そこにはサイテックスのユーザである製版側が必要ないろいろな機能をXTentionで付け加えていた。Quarkはバージョンアップする際にサイテックスが付加していた製版機能も自分のところの本体の機能として入れてしまい、サイテックスから見るとソフトを取られたというようなことで裁判沙汰も起こるが,それほどQuarkXPressのようなソフトは業界向きになった。
1990年頃はDTPが次なる開発ターゲットをカラー自然画の品質向上に置きはじめたという点で大きな意味をもった年である。それまでDTPのカラーは『グッドイナフカラー』といって、従来カラー印刷のクオリティが必要ない分野を狙おうとしていた。従来のカラー印刷の品質が必要な場合はサイテックスなどの専門のシステムを使うという棲み分けが成立していたのである。それをQuarkは上記のような方法で破りはじめ、Adobeもイメージセッタのメーカーもそれまでの整数網点の限界を破る新たな網点形成法を開発するようになった。
この完成にはまだ時間がかかり、1992年のシーボルト・サンフランシスコ会議にてPostScriptのカラーは合格点がもらえるに至った。この時はいろいろなシステムの網点を綿密に調べるプロジェクトがあって、その結果フィルムのレベルで見るとサイテックスで作ろうとPostScriptで作ろうと同じレベルであることが公表された。違いは生産性だけであり、まだCEPSの方が実際には有利であった。
いずれにせよDTP開発はプロ用になって,一般のオフィスユーザには不必要な機能が入ってくるのが1990年である。一方レーザプリンタの向上とワープロソフトの充実により、過去にDTPでモノクロの文書やニューズレターを作っていた分野はどんどんIBM/PCとワープロソフトに取って代わられるという変化もあった。QuarkのようなDTPソフトは普通のパソコンショップに置くものではなくなってくると同時に、プロにはXTentionがないと使い物にならないという面もでてくる。
例えば,日本で言うと,ソニーがNEWSというワークステーションの普及のためにDTPコンソーシアムを作っていた.ソニーはこれから日本でもDTP時代だが,日本のパソコンでは力が足りないからNEWSを使うことを提唱した.これは1987年くらいから始まったのだが1990年くらいになると,年1回集まりがあるくらいで有名無実な会になってしまった.結局オフィス向けはだめで,日本でもSMIエディアンなどプロ向けのシステムだけが残った。
その1
DTPの発展を振り返る DTP前史 1980〜1984
その2
無視された夢想家 DTPの出現 1985年
その3
DTPの衝撃と定義 1986-1987
その4
形勢はDTPの逆転勝利へ 1988年
その5
アドビの最初のつまずき : 1989年
2000/05/30 00:00:00