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5.送り手・受け手相乗効果/応用範囲の拡大

コンピュータの100年と、インターネットへの相転移  その6

社団法人日本印刷技術協会 副会長 和久井 孝太郎

5-1【ソフトの分離販売(アンバンドリング:unbandling)】

IBM社は,第1世代から激烈なコンピュータ・ビジネス戦争を勝ち抜き,第3世代コンピュータ時代にはハードと基本的なソフトの優秀さに合わせて,ユーザのために多彩なアプリケーション・ソフトを提供することで世界にその名を轟かせていた。
1953年には,コンピュータが必要な民間企業はいずれもUNIVACを買っていた。ほかに選択の余地がなかったからである。しかし,その2年後,IBM社は米国のコンピュータの2分の1を売り,UNIVACの生産者であるスペリーランド社の市場占有率は,39%までに落ちてしまっていた。さらに1年半後(IBMシステム/360の時代)には,コンピュータ産業は「IBMと7人の小人」として,広く知られるようになる。
スペリーランド社は,GE社やRCA社などと共に7人の小人の仲間に入り,マーケットシェア(market share:市場占有率)では10%になってしまった。これはIBM社が,マーケティング(marketing:市場調査・商品計画・販売促進・宣伝広告等の総合)力を筆頭に,販売力とサービス力で他者を圧倒していたからである。

IBM社は,コンピュータ以前は社長のトーマスJ.ワトソン・シニアが中心になって発展させた事務機器メーカーで,同じく米国のパワーズ社やレミントンランド社と競合関係にあったが,会計や統計のためのパンチカードシステム(Punch Card System:PCS)では,やや有利なビジネスができて日本にも進出していた。コンピュータ時代に入り,IBM社は極めて大きい存在となた。立石泰則の「覇者の誤算〜日米コンピュータ戦争40年」(*) から一部を引用する。

『…1950年 6月に朝鮮戦争が始まってまもなく,ワトソン・ジュニア(前出,52年に社長に就任)とジェームズ・バーゲンシュトック(IBM社の知的所有権関係の責任者。後に,立石が言う「日米コンピュータ戦争の緒戦」でわが国の通産省とコンピュータ開発メーカー各社の連合軍を相手に,戦うことになる男)の二人は,当時,社長であったトーマス J. ワトソン・シニアの部屋に呼ばれた。
IBM社の創始者であるワトソン・シニアは非常に愛国心に富んだ経営者で,第2次大戦中はIBMの中に軍需部門を設けて兵器を製造し,国家の戦争遂行に積極的に協力した経験を持つ。IBMの機器や技術も進んで軍や官庁に提供したことは言うまでもない。そうした協力はIBMに,軍需企業としての莫大な利益をもたらしていた。…

米ソの対立,つまり冷戦構造が世界体制を支配する時代に入り,その対応のため米国空軍は「SAGE」と呼ばれる,半自動式防空管制システムの建設計画に取り組んでいた。当時のIBMの経営は,兵器は製造していなかったものの,軍関係の計算機に対する需要によって支えられていたと言っても過言ではなかった。
ワトソン・シニアは,朝鮮戦争の勃発で,再び愛国者に戻っていた。…そのときすでに,シニアは,トルーマン大統領に「IBMが総力をあげて政府に協力する」旨の電報を打っていた。…
「これは絶好のチャンスだ。この機会を利用して,父親が蹴ったコンピュータ事業を,軍需部門の仕事だと言って進めよう。軍需という名前をつけて,堂々とやればいいんだ。…」ジュニアはそう言ってバーゲンシュトックに,「このコンピュータは,防衛関係や軍関係で,どれくらい契約をとることができるかな。君は,どう思う?」…

バーゲンシュトックはワシントンに出向き,国防総省を訪ねるとともに,政府関連の研究施設や軍需企業を回っては,コンピュータの需要を探ってみた。その結果,国防関連の多くの分野〜原子力,誘導ミサイル,暗号解読などに関しては,エンジニアや科学者たちがコンピュータの必要性を認め,一日も早い導入を望んでいることが分かった。そのさいに,バーゲンシュトックは,コンピュータの研究・開発のための資金を政府から得られないものかと,運動もしていた。
しかし,ユーザの大きな反響は,彼の心に変化をもたらした。バーゲンシュトックはニューヨークに戻ると,ジュニアに戦略の変更を求めた。

「政府からの補助金を受けるのは止めましょう。政府のヒモ付きになると,特許などの権利のうえで,IBMは縛られることになります。用途を絞ったコンピュータの開発をすれば,ユーザの要望を絞って開発すれば,IBMはすぐにでもコンピュータを作ることができます。ですから,すぐに製造して,20社くらいのユーザに売りましょう」
「それはいい考えだ。君は,その機械を売るとしたら,レンタルするとしたら,どのくらいの値段を考えているんだい?」
「月,8000ドルです」

その頃のPCSのレンタル料は,平均すると,1ケ月 800ドルだった。計算のスピードアップのため,一部に真空管を使用したIBMの小型の電子会計機でさえ, 350ドルしかしなかった時代である。
ワトソン・ジュニアは,厳しい口調でバーゲンシュトックに答えた。
「しかし,コンピュータは高価だから,18社から22社の契約がとれなければ,君の提案は認められないよ」
バーゲンシュトックは,さっそく注文とりに回った。そして彼は,わずか2ケ月余りの間に,18台の受注に成功するのである。その頃,米国全土にあるコンピュータのすべてを合計しても,10台あるかないかだった。…

ワトソン・シニアは,コンピュータという機械を生理的に忌み嫌っていたとしても,その事実を前にして商品価値まで否定するような愚かな人間ではなかった。…』
[*筆者注:立石泰則:覇者の誤算〜日米コンピュータ戦争の40年,日本経済新聞社(1993)]

以上の話は,ワトソン・ジュニア達が完成したばかりのENIACを見学した直後のエピソードである。かくして,IBM社はコンピュータ分野へ参入したが,当初から高いマーケティング力,技術力,販売力を持っていたことが分かる(ただし,コンピュータ技術で特別他社に勝っていたわけではない)。彼らは,特許やブランド(brand:商標)などの知的所有権が金のなる木であることを十分に承知していた。

日本は戦後,国の安定と経済力回復のために継続してきた,為替や貿易の制限を段階的に撤廃することを,1960年に為替貿易自由化計画として発表した。だがこの時代わが国のコンピュータ開発は,著についたばかりで独自の技術はまだ貧弱で,「IBMと7人の小人」のたとえにも入らず「モスキート級(mosquito weight:アマチュアボクシングの超軽量級)」であると自他ともに認識していた。
わが国のコンピュータ産業が一人前に育ち,貿易の自由化にも対応できるようになるためには,IBM特許の使用許諾が,先ず,不可欠であった。IBM社との特許使用許諾の交渉は難航したが,通産省重工業局が窓口となって官民一体で許諾にこぎつけた。この時のIBM社の交渉代表が,前出のバーゲシュトックで彼は副社長であった。日本側の代表は,もちろん佐橋重工業局長であったが,実務面で活躍したのが松平守彦課長補佐(現,大分県県知事)であった。交渉妥結後,IBM社と特許協定を結んだのは,富士通,日立,北辰,松下,三菱,日電,沖電,東芝の各社であった。通産省は,その後も国産コンピュータ育成に尽力した。

IBM社が,米国内で圧倒的なビジネスシェアを支配するに至って,米国司法省は1969年に,IBM社を'独占禁止法違反の疑い'で提訴した。IBM社は,直ちに'アンバンドリング'を発表して,翌年から実施に移した。IBM社が,ハード・ソフト一体の伝統的なビジネス手法から,ハードとソフトを分離したビジネス手法に切り替えたことで,コンピュータ分野で新たにソフト産業が勃興することになる。そして更に,オープン化・ネットワーク化に対する新しい時代の流れを作り出す要因となった。

IBM社は,自社の全製品内でのオープン化を実現して一層顧客を囲い込むために,それ以前には十分でなかった,「通信仕様の統一・ユーザインタフェースの統一・応用ソフトの互換性達成」のために,SAA(System Application Architecture)と呼ばれる構想を打ち出したが,先にも述べたコンピュータのダウンサイジング化・オープン化・ネットワーク化の時代の奔流を止めることはできなかった。
コンピュータが,「応用範囲拡大」から「信頼性向上・操作性向上・経済性向上」に至る段階で忘れてならないものに,米国のDEC社が開発した,いわゆるミニコンピュータがある。

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2000/05/05 00:00:00


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