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『デジタルワールド』創造とデジタル文明の勃興

コンピュータの100年と、インターネットへの相転移  その9

社団法人日本印刷技術協会 副会長 和久井 孝太郎

情報通信ネットワークのデジタル化に関しては,米国AT&T社がPCM(Pulse Code Modulation)による24チャンネルの多重通信方式「T-1」を世界に先駆け商用化したのは1962年のことであった。60年代末には,米国電子工業協会がFCCに対し「広帯域通信ネットワーク」に関する提案書を提出。この頃,今日の「情報スーパーハイウエイ」のはしりと言うべき,「データハイウエイ」論や「ワイヤード・シティ」論が,産業界や未来学者などの間で盛んに議論された。

米国で1993年(平成 5年)1月に情報スーパーハイウエイ構想を掲げたクリントン大統領とゴア副大統領による政権が誕生し,「米国の経済成長のための技術・経済力構築の新しい方向(Technology for America's Economic Growth,A New Direction to Build Economic Strength) 」を発表,矢継ぎ早に「全米情報インフラストラクチャ(NII: National Information Infrastructure)構築の行動計画」を策定,『デジタル』に積極姿勢を示したことは,経済先進諸国の政府や産業界に少なからぬ衝撃を与えた。何よりも米国は,「デジタル=コンピュータ」と,そのネットワークとしてのLANやインターネットの産業的な進展で,すでに大きい実績を積み上げていた。

マスメディアには,「デジタル時代の到来」は言うに及ばず,『デジタル革命』「IT革命」「マルチメディア革命」などの派手な見出しが踊るようになった。

【デジタル米国の建国に向けて】

このように見てくると,いわゆる『デジタル革命』には,どの国の文化よりも米国文化が最も深く関与している。あたかも米国建国の歴史,自由な新天地を求めてヨーロッパ(アナログ)から米国大陸(デジタル)への移住,そしてパックス・アメリカーナ(Pax Americana:の米国によって保たれる世界秩序)『デジタルワールド』創造への意欲がうかがえる。
なお,パソコンやインターネットなどの歴史の知識も必要だが,その種の情報は現在極めて多く出回っている。ここでは下記の指摘にとどめる。

1990年に米国議会でインターネットの商用化の議論が始まった。ゴア上院議員らが中心になって,「高性能コンピューティング法(High Performance Computing Act:HPCA)」を91年12月に制定した。これは後に,HPCC(High Performance Computing and Communica tions)となる。さらに,ゴア上院議員は92年に「情報インフラストラクチャ技術法(Information Infrastructure Technology Act)」を提案。ゴアのブレーンとして大学やシリコンバレーの産業界などが活動した。

1996年 2月,長年の懸案であった連邦通信法改正が,「1996年電気通信法」にクリントン大統領が署名して実現した。すなわち,「1934年通信法」をベースにしてきたそれまでの情報通信や放送関連の法律が,62年ぶりに抜本的に改正されたことになる。

米国では関連法規の改正とデジタル化の進展により,コンピュータネットワーク(インターネット)と電気通信ネットワーク(長距離電気通信と地域電気通信),そして,放送ネットワーク(地上波放送・衛星波放送・CATV)間に,より自由な競走環境の整備が整った。 国際化が進む現代にあっては,米国でのこのような動きは,世界各国に多大な影響を及ぼす。日本もこの埒外ではあり得ないが,わが国の場合は,上記の米国の動きに火をつけた立場であるといえないこともない。

すなわち,バブル崩壊までの日本経済は,二度の石油危機などの困難を集団主義で乗り越え,破竹の勢いで,1986年には国民一人当たりの国民総生産(GNP)が米国を追い抜いて世界1位になった。情報通信分野における「INS」,放送分野における「ハイビジョン」,コンピュータ分野における「第5世代コンピュータ」など,メディアの先端技術開発も活発であった。

ハーバード大学東アジア研究所長のE.F.ヴォーゲルが「JAPAN AS NUMBER ONE〜Lessons for America 〜」を書いたのが1979年,マサチューセッツ工科大学産業生産性調査委員会委員長のM.L.ダートウゾスらが米国産業再生のための米日欧産業比較調査を行い 「MADE IN AMERICA」を著したのが89年のことであった。

また,米国議会のまわりにリビジョニスト(通説を逆転させる'見直し論者')と呼ばれる人達が登場して,「日本バッシング」が起こったのも80年代後半であった。 ニューヨーク株式市場が史上最大の下げ率22.6パーセントを記録したのは,1987年10月19日月曜日(ブラックマンデー)である。米国は,「強いドル・強いアメリカ」を求めたが双子の赤字が拡大,日本より早く経済困難に遭遇,その建て直しと東西冷戦構造崩壊後への対応を,産官政学共同で真剣に取り組むことになった。

「日本バッシング」に関して,田中直毅が次のように紹介している。(*) '…日本は本当の資本主義ではないが,アメリカがやさしく日本を包み込んでいれば,日本は価格メカニズムを生かして資源配分を行う経済に完全に転換するはずだから,それまでの時間的なゆとりを与えるべきだという議論が圧倒的に優越であった。という総括を行ったのがリビジョニストであった。

ところが,かれらによれば,日本はそうした変化への期待を始終裏切り続けてきた。そして,貿易黒字はできるだけ積み上げることに価値があり,その積み上げた貿易黒字でもってアメリカの資産を買いまくる,いわばマーカンティリスト(重商主義者)の行き方をとっているではないか,と論じたのである。

こうした変わらない日本に対しては,かれらに痛い目に遭わせる以外にないというのがリビジョニストの考え方で,…以降,…日本に存在するリズムを肯定的に扱うことは言論人にとってもかなりむずかしくなったとの指摘もある。そういう意味では,アメリカのマスメディアでもあるいは大学でも,日本をまともな研究対象とする意気ごみが次第に失せてきているのではないか,というわけだ。…'
 [*筆者注:田中直毅:ビッグバン後の日本経済,日本経済新聞社(1997)]

【インターネット→メディアの『相転移』】

電子メールやネットニュース(netnews:インターネット上で個人から不特定多数の利用者に向けて流す情報),ファイル転送,WWW(World Wide Web:インターネットで用いられる情報検索システム)サーバとMosaicやNetscap(WWW browser の一種:WWWサーバを検索するためのソフト)などによる,世界に開かれたマルチメディア情報提供/検索のインターネットのユーザは指数関数的に増加,1999年版「通信白書」によると,世界のインターネット人口は約1億6000万人(日本は約1700万人)世界のホスト数は4300万台となっている。インターネット人口とPCの数が同じであれば,1台のホストに3.7 台のPCが接続されていることになる。インターネットは,さらに増殖中である。

インターネットは米国国防総省国防高等研究計画庁(DOD/DARPA) が中心になって,1969年スタンフォード研究所・カリフォルニア大サンタバーバラ校・同ロサンゼルス校・ユタ大の4拠点で実験が開始された,ARPAnet(高等研究計画庁ネットワーク)以来,79年に全米科学財団(NSF) に支援された「コンピュータ科学研究ネットワーク(CSnet) 」創設,80年代に入ってのARPAnet とCSnet の接続,TCP/IP(Transmission Control Protocol/Internet Protocol:デジタル・ネットワークとインターネットの技術的な通信規則)のUNIXへの標準装備,軍用ネットワーク(MILnet・DDN)の分離,そしてCSnet からNSFnetへ,CIX (Commercial Internet eXchange)の準備,90年にARPAが解散してNSFnetが中心になり商用サービスの解禁へ,95年にはNSFnetも終了してインターネット接続の完全商用化が実現した。

さらに,前項で詳しく検討したように,これと並行して進んだミニコンやワークステーション,パソコンの開発と実用化の流れは,米国ならではの絶妙な歴史の産物だ。前者にあっては核戦争勃発時に,中央集権的な「縦型」コンピュータ・ネットワークの被害をどのようにして最小限に抑えるか?分散的な「横型」コンピュータ・ネットワークの研究が源流であった。その後,軍事目的と学術用ネットワークの分離,そして,商用化。政府規制がゆるやかな草の根グローバル・コンピュータ・ネットワークの実現。

「インターネット」が創りだすコミュニケーション空間を,「電脳空間(サイバースペース)」とも呼ぶ。後日,歴史としてどのように評価されるかはともかく,この新たなコミュニケーション空間を図9では,メディアの『相転移』として表示した。物理や化学における固体・液体・気体間の相転移をイメージしてもらえばよい。筆者は土の上に築かれた「文化」が重要な役割を担う実世界(社会)を「固相」に,対して電子の上に新たに築かれる「原則自由」のサイバースペースを「液相」や「気相」に見立てた。

『相転移』そしてついには「ものばなれ」に至る段階は,言葉に馴染みがなく意味不明瞭になりかねない。分かりやすい事例として「時計」を選んで説明する。「より精緻なサービス」→「ソフト化サービス化」→『相転移』→「ものばなれ」の階段を「ものごと」としての時計は,どのように登り詰めてきたのか?

現在につながる時計(ウォッチ)で言えば,1960年頃まではスイス製品がほとんど世界市場を制覇していた。戦後の日本では,同じ頃から自動工作機械が続々導入されるようになって,国産部品の寸法精度が上がり,流れ作業の導入によって,小品種・多量生産による時間精度の高い時計のコスト低下が実現された(時計の基本充足時代)。

諏訪精工舎(現,エプソン)が世界に先駆けて,デジタル・クオーツ腕時計を発表したのは1969年である。規格化・産業化が行われ,超LSI技術などデジタル電子技術の進歩とあいまって,機械式の時計より更に時間精度が良く,操作性の良い,安価な時計が世界市場に多品種・大量に出回るようになった(時計の高度充足時代の到来)。

時計ではすでに「ソフト化サービス化」が進展し,その先端では「ものばなれ」も生じている。時計における「ソフト化サービス化」とは,時計の多機能化,高級装飾品化,更にソフト化して,時計が本来目的としていた人間に正確な時を告げる目的から逸脱し,本来とは違う目的に利用されることなどを指している。そして,その極致が「ものばなれ」である。千円台の正確な時計がある一方で,1千万円のダイヤモンドをちりばめた装飾品としての時計もある。更に,時計のイヤリングや広場のからくり時計は,「ものばなれ」の象徴ではないのか。「ものばなれ」とは全く新しい価値体系へ飛び出すことである。

マルチ・メディア曼荼羅のすべての(情報)メディアは,相転移から「ものばなれ」へと向うであろう。各メディアを支えてきた独自の技術が,デジタル的に融合するからである。最初の欲求が想像しなかったメディアの相転移が「ノマド」的な生き方を産み出し,「ノマド」が提出する新しい欲求が,21世紀の宇宙船地球号の安全で,安定な運行を可能とする新しい価値体系のメディアに変身することを期待している。

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2000/06/10 00:00:00


公益社団法人日本印刷技術協会