DTPの過去・現在・未来 その7
1997年7月31日T&G研究会ミーティング「DTPの発展を検証する」より (社)日本印刷技術協会 理事 小笠原 治
DTPがプロ用に使われるようになって、アメリカで一体業界にどのように影響を与えたのかを調査するために、1991年にサンフランシスコ他の写植屋を見にいったことがある。そうすると3年で写植業が半減していた。写植屋が廃業するとか、あるいはDTPを使って製版にまで業務を広げるとか、いろいろ転業して、写植専業は半分になったことは電話帳でも確認できた。もっとも電話帳にはDTPというジャンルは追加されていて、そこに元写植屋は広告をだしたりしていた。
その年のシーボルト会議はサンノゼで行われて、写植がなくなったのに次いで、今度は製版が包囲されていて、これから製版業者はなくなるのか、というテーマがあった。一部の未来指向の人には、やはり写植業者のように製版業者もなくなると話題にしているのだが、実態としてはサイテックス他のCEPS勢は強気であったし、事実売れていた時代である。
それまでは写植みたいなことはパソコンでできても、カラー製版はパソコンではできないだろうと考える人は多かったが、1991年はAppleとIBMがPowerPCをこれから一緒にかついで、OSもマルチメディア開発も一緒にやろうということを、シーボルトの会議中に特別発表という形で行った。つまりDTPで使っているMacがUNIXのワークステーションのようなRISCプロセッサになるなら、CEPSのような従来の製版はもういらないというイメージが芽生えた。これがきっかけで設備投資はCEPSはやめて、今後はDTPで設備投資を考えるという転換をしたところが多くなった。
UNIXの分野へのチャレンジはもうひとつあった。DTPの技術は、そのころはレイアウトソフトもプロ向きになってきたので、ネットワークとかワークグループがテーマになっていった。この世界はある程度以上の規模の出版社では、もともとATEXなどミニコンで編集作業の管理をしていたものがあったので、これとつなげないとDTPは導入できないからである。この分野にはいくつかのベンチャー企業がチャレンジしていた。そしてその人達は、今またIT関連で活躍の機会が与えられている。
当然Quarkは出版分野を重視していたので、こういったシステムを手本にして、QPS(クオーク・パブリッシング・システム)という、ネットワーク上で1冊の媒体を何人かのワークステーションで分けて分散作業するのを、サーバで管理するシステムである。1冊の媒体を同時に何人かで分担作業をしている様子が全部統合的に管理されるような、生産管理的なシステムを含めたものを出してきた。それまでのこの種のシステムは、個別の顧客毎に作りこんでいたのが、QPSでは骨格だけ与えて、ユーザがカスタマイズしてつかうような汎用性を狙っていた。とはいってもこれはDTPソフトのように手離れのよいパッケージソフトではなく、離陸には時間がかかった。
こういったパソコン化の流れは、印刷物制作のワークフローを大きく変えつつあった。例えば、新聞関係の話だが、今まで版下作りは工場の仕事であった。それを顧客に見せるのは、営業であった。ところが、DTP化することによって、例えば営業のオフィスでカンプ、版下までは行ってしまうようになった。今まで工場で行っていた仕事は、少なくともプリプレスは工場から切り離されてオフィス環境の中に入っていくように、社内の態勢が変わってきた。
それは、営業の仕事がやりやすいように製造の方を組み換えるのである。新聞の広告で言えば、広告営業が動きやすいように広告制作にDTPを使って営業の方にをひきつけると、売上が伸びる。つまり、どうしても印刷業の場合は工場での集中生産を考えるが、DTPの進化で、作業が分散する。必要とする部署に分散して制作していくことが起こりつつあった。
作業の分散化に輪をかけたのは売れ行きがよくなってきたWindowsのオフィスへの普及である。今までプリプレスに集中していた仕事が、一般オフィスにあるWindowsにだんだん分散し、担当のところに、仕事が移った。それまでDTPは商業印刷もオフィスドキュメントも同じようにシーボルト会議のテーマであったのが、オフィスドキュメントの話しはシーボルトの話題からは消え入りそうになっていった。
その1
DTPの発展を振り返る DTP前史 1980〜1984
その2
無視された夢想家 DTPの出現 1985年
その3
DTPの衝撃と定義 1986-1987
その4
形勢はDTPの逆転勝利へ 1988年
その5
アドビの最初のつまずき : 1989年
その6
アマ用DTPは消滅し、DTPはプロの世界へ : 1990年
2000/06/09 00:00:00