本記事は、アーカイブに保存されている過去の記事です。最新の情報は、公益社団法人日本印刷技術協会(JAGAT)サイトをご確認ください。

シーボルトが総括したDTPの完成 : 1992年

DTPの過去・現在・未来 その8
1997年7月31日T&G研究会ミーティング「DTPの発展を検証する」より (社)日本印刷技術協会 理事 小笠原 治

1990年代に入って最も問題視されたのは、PostScriptによるスクリーニングがどうもモアレっぽいとかザラついていて画質が悪くなることがあって、90年ごろから網点の作り方が変わった。スーパーセルという、従来の網点の角度に近いものが出るように網点の角度を変えるとか、いわゆるロゼットというが、一種のモアレが目立つふうなところを、90〜92年の3年間で改良していった。サイテックスからシーボルトのスタッフになったカレン・エライザは1991年からいろいろな出力装置が生成する網点のテストをしていて、1992年のシーボルト・サンフランシスコで総括的な資料を用意して大発表をした。

それ以前はカラーDTPのことはグッドイナフカラーだと言われたのが、90年から91年のスーパーセルの技術的な進歩があり、イメージセッタで出すとか網点とCEPSの網点をかなり綿密に調べた結果、1992年のシーボルト・サンフランシスコではサイテックスで作ろうとPostScriptで作ろうと同じレベルであるとはっきり宣言し、PostScriptで作ったカラーの網点は合格だと言った。こんなにはっきり宣言されたことは衝撃的であった。その場に居合わせたもの以外は、時代の雰囲気としては、まだCEPSの品質的な優位性が信仰されていたからである。

もう翌年のシーボルトの会議になると、欧米ではデスクトップで全部できると言い切るようになっており、それからシーボルトの会議のテーマでCEPSの話をする人はもうないというように、状況は一変するようになる。要するに商業印刷もDTPの市民権が確立し、生産性や操作性はまだ課題があるにしても、DTP以外のシステムがなくても印刷はできるというように、DTPは完成の域に達した。

このように1992年にシーボルトは大仕事を成し遂げるとともに、会議のクロージングでジョナサン・シーボルト氏はDTPの総括として11ほどの項目に絞った話をした。DTPと専用システムの間にいろいろな中間的な目標も考えられたが、そういうものはなくて、結局、従来のプリプレスをコンピュータが全部包含するようになった。もうターンキーの専用システムには戻れない。これからはネットワーク/ワークグループのように、共同作業するシステムを考えなければならない。マルチユーザで共同作業するグループ作業用のツールがこれから問題になるだろう。

それから、シングルベンダが全部提供することはない。また、システムを考えること、カスタム化をどうするかは、結局ユーザに委ねられる。それから、全部コンピュータの上でできて、作る過程でも、分散があると結局DTPの部品は通信を使ってやりとりする形になる。そうすると、DTPででき上がった結果を通信を使えば、紙に出力しなくてもコミュニケーションができるという話であった。この頃にAdobeのAcrobatが出ていて、これからDTPだけではなくて電子デリバリをやらなければいけないともいった。

また、DTPにはシナリオはつあって、1つはオフィス向けのDTPで、もう一つはプロ向けであったのが、オフィス向けにTrueTypeの書体がたくさん出たことで、DTPの世界にはかなりレベルの低い書体もたくさん出てしまった。トータルで見ると、コンピュータで作る紙面はレベルの低いものがたくさん出てきている。そういう悪い書体が良い書体が追い出すと困る。

それから、マルチメディアがかなり話題になり出していたが、マルチメディアは興味本位で言うのはともかく、どうしてそれが必要なのかは語られていない。それに対して身を乗り出すことはちょっとどうかと、この当時は言っていた。(このことは、その後インターネットの勃興でまた変わる。)

スキルについては、今までのアナログのものとコンピュータを使う上でのスキルは全く違うものになる。アナログの場合は、大体これだけのことができたらあなたは半人前とか一人前とかいう指標があったが、デジタルになったときに、どうやって人の伸びていくスキルの指標、あるいは知識の指標を与えるのかという話があった。

まだDTPは品質的には至らないところがあるが、DTPはグッドイナフで良いのではなく、従来写植・製版で行っていたものを超える目標をこれから立てなければならない。DTPの網点も合格だと言ったが、これはたまたまある条件のテストで合格だと言っただけで、オーバーオールに全部で何もかも合格だと言っているわけではない。だからまだまだサイテックスを超えるくらいの目標を立てなければいけない。

それから、業界のリストラクチャが起こる。シーボルト氏が一貫して言っていたのは、CTPで制作途中の材料費削減とかを問題にするよりも、編集に携わる人間をサポートするシステムをいかにコンピュータで行っていくかであったが、92年の総括でも人間が何をするかという枠組みから再編を考える必要があると言っていた。

それから、デジタル化でコピーが簡単にできてしまうことの問題などを言ったが、後から考えると、シーボルト氏がまとまった発言をしたのはこのときが最後である。これ以後にも、シーボルト会議は93年も94年も95年もあったが、シーボルト氏は傍観者のようになってしまった。ここまでがDTPの技術変化の時代であり、残された課題についてやるべきことはあるが、それは今と大きく違うことではなく、充足を図ることであり、大体もう見えている。

1982年頃からジョナサン・シーボルトはDTPを予言し、DTPの進むべき方向を折りにふれてアドバイスしてきた。フォント戦争などの難しい局面でも無駄な戦いを避けて議論を収束させる力を発揮した。DTPの進展とともに、残された問題点を整理して、開発者がそれを潰していきやすくしていた。このようなシーボルト氏の役割は10年間の活動を通してほとんどやり終えたと感じたのであろう。しかしシーボルトの組織は大きくなったので、それを今後どのようにするかの方が、シーボルト氏の課題としてせっぱ詰まったものとなっていく。

その1 DTPの発展を振り返る DTP前史 1980〜1984
その2 無視された夢想家  DTPの出現 1985年
その3 DTPの衝撃と定義 1986-1987
その4 形勢はDTPの逆転勝利へ 1988年
その5 アドビの最初のつまずき : 1989年
その6 アマ用DTPは消滅し、DTPはプロの世界へ : 1990年
その7 DTPは工場からオフィスへ : 1991年

2000/06/11 00:00:00


公益社団法人日本印刷技術協会