DTPの過去・現在・未来 その9
1997年7月31日T&G研究会ミーティング「DTPの発展を検証する」より (社)日本印刷技術協会 理事 小笠原 治
DTPソフトとしてはPageMakerが先行していたが、後発のQuarkXPressはカラーの分版出力ができるとか大判に対応して、アメリカにおける1980年代の新しい風であるUSATodayなど新聞のリデザインとカラー化というタイミングにうまく乗った。カラーDTPは1990年前後からグッドイナフカラーなどと呼ばれて使われていたが、要するに商業印刷には使えない、とされていた。しかしまもなく商業印刷にもカラーDTPが押し寄せてくることは誰もが予感していた。
当時アメリカのハイエンドで最も勢いがあったのはサイテックスで、イスラエル本社の意向とは関係なしに、ユーザ会がQuarkXPressとOEM契約して、サイテックスにインタフェースできるものとしてVisionaryを1988年に発表した。これは後のOPIに似て、サイテックスでスキャンした画像からレイアウト用画像をDTPに渡して、ページ完成後にサイテックスに戻すものである。インタフェース部分と、データ変換のXTentionからなっていた。
それ以前からサイテックスはハンドシェイクというインタフェースを公開していたが、Visionaryはそれを介してではなく、サイテックスの内部様式とQuarkXPressの内部様式を直接変換するものであった。これが理由かどうかは知らないが、Visionaryはサイテックスユーザ会のメンバにしか販売されず、メンバーは自社の客にもVisionaryを売ることができることで、サイテックスユーザの裾野を広げるという大義名分がたったようである。結果は逆で、Quarkがあればサイテックスはいらないということになるのだが、それまでには数年を要した。
Visionaryは操作も基本はQuarkXPressと同じなのに、市販のXPressとはデータの互換性がなく、その後紆余曲折を経て1991年にはQuarkXPressにサイテックスインタフェースのXTentionを加えたものとなった。少し誤解を広めたことでもあるが、アメリカの有名な雑誌の制作が次々とこういったシステムに移行して行き、雑誌の編集レイアウトのDTP化はどんどん進んでいる様子が報道されるようになった。ただしよく聞くとカラーについては…ハイエンドという注釈がついた。
この間にPageMakerも黙っていたわけではなく、1989年4月にOPI(OpenPrepressInterface)を発表して、Visionaryがサイテックスでしか使えないのと対照に、第三者にもデータ構造が公開された、PostScriptベースのDTP/CEPSインタフェースを世に出した。これはどんなDTPソフトでも、また出力システムでも、取組みが可能になるので、結果としてはスタンダードになったのだが、当時それほど普及したわけではなかった。むしろこういった仕組みは簡単なので、いろいろな出力システムが似たものを独自に出すことが多く、どうも利用者は「オープン」ということには関心がないと思われていたようである。要するにOPIは最初は有象無象の中に埋もれていて、それほどパッとせず、もっぱらVisionaryが騒がれていた。
そういう時代であった1992年秋のSeybold会議で、カラーDTPの勝利宣言に等しい網点テストの結果公開があった。この間にDTP向けRGBスキャナもPhotoshopも大いに進歩していたということもあるが、Adobe始め出力機各社の網点改良が大きかった。これはごく当たり前の結果で、多くの出力機メーカはもともとCEPSメーカーであり、網点技術はもっていたためである。そして1993年のシーボルト会議では、欧米の参加者層はデスクトップでカラーも全部できてCEPSはなくなると言い切り、会議テーマからスッパリはずされてしまった。ちなみに日本人はCEPSがなくなるとはまだ言えなかった。
DTPの網点がOKとしても、まだ2つほど問題があった。あるところでOKになったデータを、別のところに持っていってやはり同じようにOKになっているかという話が、カラーマネジメントの課題として浮上する。製版を飛ばしてDTPが出力に直結するなら、データの段階でOKの状態を保っていなければならないので、カラーマネジメントの議論がここで始まる。
ちょうどAppleが1993年にColorSyncというカラーマネジメントを発表した。それまでAppleはカラーデバイスはあまり売り物がなかったが、カラースキャナとか、今後カラープリンタを売るについて、Appleの画面で作ってApple製品でプリントしたら、それは対応していないと困る。Appleの販売政策上のカラーマネジメントではあったが、その仕組みは公にして、他の開発者にも使えるものとした。
しかしSeybold会議では、Appleの製品だけではなく、他社のモニタでも、プリンタでも、イメージセッタでも使えるものでなければならないという議論に発展していった。ColorSyncに対して、これをオープンにして、もっともっとハイエンドの要求も聞いてほしいという要求が出て、Appleもすぐに対応を始めるし、ICCという国際的なデバイスカラー問題のコンソーシアムができるなど、カラーDTP関係は急速に展開を始めた。
もう一つの課題はPostScriptにあり、例えば階調が256しかないためにグラデーションにまだバンディングができるとか、もっとPostScriptでできる機能を増やして欲しいと言う要求が次々に噴出してきた。これはハイエンドのユーザがカラーDTPに移行しようとしたなら当然なことではあるが、AdobeはPostScriptがLevel2になったようには簡単にPostScriptを変更するとはいわず、Adobeは1996年に発表されるpostScript3まで沈黙を通した。
その間に出力機メーカーはそれぞれpostScriptになりさまざまな機能も売るようになり、それが今日も出力ワークフローが標準化できない理由のひとつになっている。ともあれ、カラーDTPに向かって猛烈に進み始めるユーザと、安全をみてCEPSにしがみつくユーザに、ハイエンドの世界は2分されていった。
その1
DTPの発展を振り返る DTP前史 1980〜1984
その2
無視された夢想家 DTPの出現 1985年
その3
DTPの衝撃と定義 1986-1987
その4
形勢はDTPの逆転勝利へ 1988年
その5
アドビの最初のつまずき : 1989年
その6
アマ用DTPは消滅し、DTPはプロの世界へ : 1990年
その7
DTPは工場からオフィスへ : 1991年
その8
シーボルトが総括したDTPの完成 : 1992年
その9
カラーDTP時代の幕開け : 1993年
2000/07/03 00:00:00