DTPの過去・現在・未来 その10
1997年7月31日T&G研究会ミーティング「DTPの発展を検証する」より (社)日本印刷技術協会 理事 小笠原 治
またこの頃はQuarkXPressやPageMakerはそれほど新鮮には見えなかった。これに類するソフトは9801やSunの上で非常にたくさん開発されていた。日本でも1980年くらいから展示会ではXeroxのJStarを見ることができたし、日本のDTPの夜明けを感じさせたのはMACではなく、大阪のダイナウェアのダイナデスクであった。マニュアルの奥付を見ると1984年11月になっているし、実際日本ではMACにお目にかかるよりも前に出現していた。
当時はNECのPC100用の魅力を引出す数少ないソフトがダイナデスクであったが、このハードウェアはすぐにポシャって、ダイナウエアは9801およびUNIXのアポロの上にもダイナデスクを載せていた。これらは一見MACのDTPに近い外観であるが、実際はXeroxを起源にしている。Lisa/MacそのものがXeroxのPaloAlto研究所から引き抜いた人達で設計されたんのだから、異母兄弟のようにも思える。MACのWYSIWYGはそれらのうちでも後発であった。
この頃はDTP専用機であるキヤノンのEZPSなども出ており、日本におけるMACのDTPの出現時は相当見劣りしたものである。特に文字組版はひどいと評価されていた。しかし結果的にはDTPは専用機をすべて蹴散らしてしまった。それはPostScriptの機能の柔軟性、PostScriptType1フォントの質の高さ、PostScriptを媒介にしたモジュール的なシステム構成、などが理由で、やはりPostScriptを掲げたAdobeの先見の明ゆえである。つまりPostScriptに組することが遅れた者は不利であったり、PostScriptを無視したものは消えていくことになった。
そして1988に日本語PostScriptプリンタが出て、日本が本当の意味でのDTPの時代を迎えたので、だいたいアメリカに3年遅れてDTPがスタートした。先行していた日本独自のレイアウトシステムがその後どうして先へ進まなかったかというと,モジュールを組み合わせてシステムにするという観点がなかったからだ。PostScript採用は,データとプログラムの切り離し、ハードとソフトの切り離し、異なるハードの組み合わせを可能にするもので、プリプレス全域にデジタル化が及んでいっても、既存のユニットを捨てることなく発展させられるが、こういったPostScriptによるモジュール化をを考えなかった専用機は、だんだん複雑化するプリプレスを自社ですべてまかなうことができなくなって、後退せざるを得なくなった。
アメリカでは1985年から4年たったらカラー製版がDTPと結合するところまで来ている。この1980年代末の4年間のDTPの進み方は非常に早かった。これをうまく乗りきったクオークは1989年にはQuarkXTentionも出して、1990年くらいで印刷用にはQuarkXPressという定番になってしまった。日本ではモリサワが1991年にやっと追加書体を出し、また全社的にDTPを掲げて進むように切り替わった。これもアメリカに比べると3年ほど遅れているが、この後は日本でも怒涛のようにフォントが出ていくようになる。開発費のかかるフォントが増えることはDTPが市民権を得ることのバロメータであった。
アメリカの印刷物制作現場でDTPが従来方法に匹敵するか上回ったといわれたのは1994年頃であった。日本ではPAGE94のときに,「写植・製版がなくなる日」というセッションを行って,DTPを熱心に行っている人に,3年後の97年に日本のDTPはどうなっているかを聞いた。日本の場合,変化は緩やかだろうから,97年になったら半分くらいはDTPになっているのではないかというのが,そのときの話であった.97年にJAGATで設備アンケートをしたが,DTPを入れている印刷会社はJAGATの会員では7割ある.日本の印刷全部で言っても4〜5割くらいと推定され、DTPは印刷業の中でも必須のものとなった。これもアメリカより3年遅れであった。
その1
DTPの発展を振り返る DTP前史 1980〜1984
その2
無視された夢想家 DTPの出現 1985年
その3
DTPの衝撃と定義 1986-1987
その4
形勢はDTPの逆転勝利へ 1988年
その5
アドビの最初のつまずき : 1989年
その6
アマ用DTPは消滅し、DTPはプロの世界へ : 1990年
その7
DTPは工場からオフィスへ : 1991年
その8
シーボルトが総括したDTPの完成 : 1992年
その9
カラーDTP時代の幕開け : 1993年
2000/07/09 00:00:00