これは,江戸時代に出版の大衆化が進み,絵入本が多くなったため,文字と絵を1枚の板に彫る木版印刷のほうが,活版印刷よりも手間を要しなかったからである。さらに日本では,平仮名の文字は草書で書かれることが多く,続き文字で表記されるため,活字のように,1字1字を独立させることが困難であった。このことも,木版印刷重視の要因となった。
こうした事情のために,日本の印刷史では,活版から木版へ逆行するという奇妙な現象がみられ,本格的に活版印刷が始まるのは,1870年(明治3年)以後である。
本木昌造が号数活字による日本独自の活版印刷を実用化することによって,わが国も活版印刷の時代に入るが,それとともに,新聞,雑誌,書籍などが,「活字メディア」という呼称で有力なメディアとしての力を発揮し始める。
すなわち,活版印刷は,木版印刷や写本などのような手工業的な段階ではみられなかった表現の量的拡大とスピード化を生み出し,そのことによって,活版印刷は「活字メディア」という名のメディアを作り出したのである。そして,活版印刷は,書籍や新聞,雑誌などの形態も変えた。
木版印刷や写本の時代は,用紙に和紙が用いられていたため,片面印刷しかできず,袋綴じによる和装の装丁であった。それは書籍だけでなく,雑誌,新聞も同じである。
1870年(明治3年)に初の日刊紙である「横浜毎日新聞」が創刊される以前にも,新聞はあったが,それらは木版で和紙に印刷され,袋綴じされた冊子だった。だから,1867年(慶応3年)に創刊されたわが国最初の雑誌である「西洋雑誌」と同じ形態である。この雑誌も木版で和紙に印刷され,袋綴じの製本であった。
ところが,「横浜毎日新聞」は,本木昌造の造った活字を用いて,洋紙に1枚刷りで印刷したもので,冊子ではなく,現在の新聞と同じような形態であった。この時点で,雑誌と新聞は,はっきりと区分けされたのである。
まず雑誌では,1925年(大正14年)1月に大日本雄弁会講談社から月刊雑誌の「キング」が創刊された。この雑誌は,子供から大人まで読める雑誌として,創刊号は74万部を売り切った。同誌は昭和に入ると,100万部を突破したが,このような大部数の雑誌の発行が可能になったのは,活版印刷の普及によるものだろう。
同じころ,書籍の分野でも,大部数の予約を獲得した全集が登場する。26年(大正15年)に改造社から刊行され始めた『現代日本文学全集』である。この全集は,1冊1円で,第1回配本は36万部の予約を獲得した。この全集が成功すると,27年(昭和2年)には,やはり1冊1円で新潮社が『世界文学全集』を刊行し,58万部の予約を獲得,平凡社刊行の『現代大衆文学全集』は25万部の予約を獲得した。
このように,大量の予約読者を獲得したのは,円本全集には1冊につき,通常の単行本の3冊分くらいの原稿が収録されていたからだ。しかし,これだけの大量予約があると,印刷は大変である。何しろ,27〜30年(昭和2〜5年)ごろにかけて,「円本」と呼ばれた1冊1円の全集がいろいろと刊行されたため,それらを印刷するためには印刷設備の増強が必要となった。
(中略)
また,書籍では,新書,文庫,全集などのブームが45〜55年(昭和20年代)以降,繰り返して登場し,出版界をにぎわせた。80年代以降は,テレビが出版物の売れ行きに影響するという「テレセラー」現象が台頭する。
80年代後半からCD-ROMが登場して,電子出版という新しいジャンルが開拓された。それとともに,印刷界も出版界もデジタル化の波に洗われることになり,活版印刷はすっかり消えた。今では,1冊単位の注文にも応じられるオンデマンド出版も可能になったが,印刷と出版の世界はまだまだ変わろうとしている。
2000/12/04 00:00:00