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戦後の印刷ビジネスを振り返る

印刷ライター 青山敦夫

「拡印刷」で始まった戦後

 極めて個人的体験で恐縮,とお断りしておいてのことであるが,私は今から37年前に,総勢30人程度の出版社から,そのころでも従業員7000人ほどの印刷会社に転職した。  そこで驚いたのは,印刷マンの謙虚なこと。というと,聞こえがいいが,得意先に対していつも辞を低くしている接客態度であった。
 「印刷は得意先からご用命いただいて初めて動き出す受注産業だからそうしなくてはならぬ。完成品ではなく得意先の中間製品を製造させてもらう黒子産業だから出過ぎてはいけない」というのが,その哲学らしかった。印刷所と出版社の位置関係は戦争を間にはさんでも,少しも変わってはいなかったのである。

 さらにいえば,戦後もある時期までは出版業界が印刷業界をリードした。
 「雨後の筍」のように出された「カストリ雑誌」と呼ばれた興味本位の雑誌に始まって,学習,映画,ファッション,スポーツ雑誌と続き,やがて週刊誌,写真誌ブームと長い雑誌時代が現出した。
 それを可能にしたのが,PDIに始まった製版の目覚ましい進歩であった。何しろ,カラー分解が早くなって,製版代が安くなったから,出版社はカラーページ満載の雑誌の企画が立てやすい。雑誌ブームは,印刷現場に時間と勝負の生産体制を持ち込むことになる。

 さらに,経済の高度成長とカラー化で,ポスターやカタログなどの商業印刷物が量的にどんどん増え始めた。そしてスキャナからトータルレイアウトスキャナへの歩みとともに,印刷は完全に活版からオフセットの時代へと移行する。
 同時にこの時期は,印刷ビジネスが確実に他産業と同等の位置になった時代とみることができる。
 それはなぜか。戦後の出版ブームに乗って出版印刷が活況を呈する一方,それが商業印刷に及び,やがて紙だけを相手にするところから抜け出て,印刷技術を核にして,どんどん印刷の対象領域を広げ始めたためである。

 つまり,印刷がわれわれの日常の暮らしとより密着し,生活の変化につれて,いわゆる「拡印刷」を実現していったからである。その拡印刷が,この高度成長時代に成熟段階に達したとみる。
 拡印刷の歩みは,戦後,すぐに始まっている。例えば,住宅不足で公営住宅が建設を開始するや「建材」で,スーパーマーケットが出現するや,牛乳パックや日本酒の紙パック,インスタントラーメンのフィルムパックなどの「包材」で,カラーテレビが放送を開始すればシャドーマスク,半導体製造にはフォトマスクなど「エレクトロニクス部品」で,銀行のオンライン移行では,磁気カードやICカードなど「カード類」で,といった展開であった。

 それでは,戦後の印刷ビジネスが絶好調の時代はいつだったのであろうか。異論もあろうが,70年の大阪万博からの数年間ではなかろうか。
 受注価格は安かったが,仕事が多かった。それを消化するために各社で機器増設が進んだ。やがて,東京集中だったのが,量販店の地方展開に伴って,オフ輪装備の印刷所が地方主要都市にまで及ぶようになった。
 この時期,印刷ビジネスが,出版印刷主体のころと違い,景気動向に左右されるようになったことも見逃せない。


「20世紀の印刷文化を振り返る」


月刊プリンターズサークル2000年12月号特集「20世紀の印刷を振り返る」より抜粋)


2000/12/09 00:00:00


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