ふりかえってみると1980年代はフィルムを使わない電子的刷版製版の開発が非常に盛んであった。水冷の強力なUVレーザでPS版のようなものを焼くもの、CO2レーザでカーボンをアルミ板に焼きつけるもの、放電破壊、OPC(光有機半導体)などいろいろあったが、それぞれ非常に苦戦した。一方で写植から発展してきたイメージセッタがどんどん大型化して刷版サイズになったのが1990年代であった。そして90年代半ばにイメージセッタからCTPへの雪崩れ的現象が起き始めたが、そのときはもう1980年代のレーザ製版開発のプレーヤーは消えていて、敗者復活のチャンスはなかった。
大日本インキ化学工業で記録材料事業部部長を務められていた久米正次氏は、1990年代の始めにシナディカというOPCベースのCTP開発に携わっておられた。OPC刷版自体は電子写真用として1980年代半ばから印刷の機材展などで見かけることはあったが、日本では1987年の「伸びゆく軽印刷展」「IGAS87」あたりから、レーザ走査でレコーディングするOPCのCTPが出始めていたと思う。久米氏は1990年のDrupaに向けてOPCを使った本格的なダイレクトプレートシステムを開発していたようだ。
その結果、1989年あたりから電子組版システムや電算写植などのRIP済みデータを取り込む形の汎用CTPが姿を現した。当時はモノクロページ物をターゲットにしていて、面付けなどのソフトも開発していた。しかしDTPによる全制作工程のデジタル化は、日本では当時まだ姿を現していなかった。またDrupaでCTPが話題沸騰になるのは1995年であり、大日本インキのシナディカは少し早く出すぎてタイミングを失した感じである。
久米正次氏は1996年に同社を退社し、それまで付合いのあった英国のVSM社の日本事務所を開設した。VSMは1993年に,Barry Happe, DerekWyseが設立した、世に言うコンピュ-タto何々..システムのコンサルタント会社で、ユーザーとベンダーの双方に対して調査をしている。久米氏もVSM-Japan代表としてCTPシステム関連のコンサルタント業務に従事する傍ら、JAGATのSIG-CTPでは1997年から1999年まで、CTP導入の共同研究プログラムで中心的な役割を果たした。
久米氏は高分子の畑を歩まれていたが、印刷物制作に関することに関しても非常によく勉強され、1995年にはJAGAT-DTPエキスパートの資格を取得されたほどである。自宅にMacDTPのセットをお持ちで、SIG-CTPの資料もQuarkXPressで作ってこられた。当然CTP関係の情報は詳しく、VSM社のつて以外にも業界動向を集められていて、JAGATのホームページでCTP Newsを担当されたが、2000年3月25日に急逝された。
その頃からCTPは現実の生産設備として稼動し始めた。またその直後のdrupa2000では、それまでの主流であったサーマル方式に対して、ブルーレーザによる高感度光モードがさまざま出現した。これらに関して久米氏の見解をお聞きすることはできないのが残念であるが、久米氏が個人的にCTPは究極的にこうなるのがよいのではないか、といっておられたのは、通常のPS版を焼くレーザの登場であった。さまざまなCTPや印刷工程すべてを考慮した結果がPS版的なものに戻るというのは案外あり得るかもしれない。
(テキスト&グラフィックス研究会会報 通巻148号より)
久米正次氏のご冥福を謹んでお祈りいたします。
ここにCTP News バックナンバーがあります。
PAGE2001では、2/8(木)にコンピュータtoシリンダ(D2)セッションが予定されています。
2001/01/10 00:00:00