Print Ecology(印刷業の生態学)
5章までの掲載分のindex
6章第1回
印刷経営のシステムは複雑系
6章第2回
複雑系のシステムとは !
6章第3回
予測不能な印刷経営
6章第4回
経営管理もできない
6章第5回
経営のパラダイムシフト
6章第6回
利益志向の経営へ
6章第7回
労務思想のパラダイムシフト
6章第8回
技術のパラダイムシフト
10年前までは印刷会社の経営思想は無意識のうちにコスト思想になっていた。というのは「価格=コスト+α」という恒等式を信じていた。経営コンサルタントもこの式を教えていた。αを利益と読めば、利益を上げるにはコストを下げるか、価格を上げれば良いと教えていた。ところが実際の経営ではそうはならないということをコンサルタントは知らない。コストを下げれば営業は競争の中でそれ以上に価格を下げるから利益も下ってしまうのである。だから私は実際の経営ではこの恒等式はイルージョン(幻影)だといってきた。しかし従来の印刷経営は何となくこの式を信じていれば経営が可能だった。すなわち競争もそんなに激しくないので、営業マンにとって価格の決定要因は標準料金表を守ることであった。だから印刷の経営者に「貴社は原価計算をしていますか?」という質問をすると、殆どの会社が「行っている」と答える。どんな原価計算かというと、標準料金表を使って積算を行っているというものだ。原価計算でも何でもない、ただ請求書の下書きをしているだけだ。
この料金表は得意先への請求値段に近いものである。すなわち「標準料金=工場コスト+販売管理費+営業利益」である。印刷界は長い間生産中心の経営だった。作業現場の従業員は現在でこそ30%位だが、20年前は、70%もおり、経営者の関心事は常に工場にあった。投下資本も工場設備が中心であったし、人事も工場中心であった。そして受注環境も右肩上りで競争は激しくなかった。従って営業活動も業界内の暗黙水準である標準料金表を守ることができたし、結果として工場のコストも守れたし、営業利益も確保できた。すなわち昔の印刷界の営業活動は無意識のうちにコスト志向のパラダイムになっていたし、それが印刷界共通の価値観だった。
こうしたコスト志向の営業のパラダイムは現在では全く消えて、競争至上主義の市場経済志向のパラダイムに変ってしまった。現在は全くミゼラブルな印刷界になってしまったが、その原因はもちろん印刷経営者にあるのだが、その一方、日本の印刷界の体質にもあると思っている。そこで市場経済を論ずる前に、この体質について語っておこう。
●ing体質の欠如 ―― 一つはing体質の欠如である。およそ経営というものにingという意志がなければ、経営など全くつまらないものになってしまう。価格(price)は少しでも高くできるように営業努力をすること、すなわち pricing努力がなければ営業活動なんて全くつまらないものになってしまう。一方、製造現場はコストを少しでも下げる努力、すなわち Costingの努力をしなければ、毎日の生産活動は全くつまらないものになる。そして Pricingも Costingも全く別個の自発的行為であって相互に関連は全くない。Pricingは顧客の方を向いて行うものだし、Costingは工場の中だけを考えて行うもので顧客は直接関係がない。その意味ではPricing ≠ Costingというべきだ。このing思想が業界体質の中にないので、Price=Costになってしまい、営業マンは顧客の方を向かず工場の方を向いてしまうし、工場は工場Costを忘れて、営業の請求値段ばかり追うようになる。
ing思想が分らない印刷会社に突然はげしい市場原理、競争原理が入ってくると、営業マンは工場が対応してくれると思っているし、対応できなければ外注工場をたたけば良いということになる。一方、工場は営業の請求値段が安いから赤字になるので、工場は責任がないということになる。これでは印刷経営も印刷界も混乱する一方だ。
●コスト・テーブルの欠如 ―― 欧米の印刷界と日本との違いは、日本にはコミッションセールスマンがいないことだ。勿論、欧米でもコミッションセールスマンは半分位だろう。それでもいるといないでは経営上大変な差ができる。日本の営業マンはみんなハウスセールスマンと呼ぶ人たちで、仕事を受注してくれば利益のあるなしに拘らず月給をもらえる人たちだ。一方、コミッションセールスマンとは顧客に充分なサービスを提供し、プライシング(Pricing)活動を行い、利益を出してその利益に対しコミッションを受取るセールスマンのことである。従って欧米の印刷界には会社とセールスマンの間で取決めた社内価格表(コストテーブル)がある。そのコスト表をもとに受注した印刷物の営業活動粗利益を算出し、その利益の一定割合がコミッションになる。そのコミッションを会社は必ず計算しなければならないから、どこの会社にもエスティメイト・セクション(見積計算課)がある。
このように社内価格表さえあれば、工場はその価格表で計算された社内工場売上高を毎月確定できるから、毎月の変動費、固定費と比較しながら Costingを実行できる。一方、営業部はエスティメイト(Estimate)の結果算出された営業粗利益が pricingであるから、毎月の営業部の変動費、固定費と比較して営業部の毎月の損益状況が確定できる。このようにコストテーブルは重要な機能を持っているのだが、殆どの日本の印刷会社には、このコストテーブルがないために、受注価格はいくら低くても歯止めがないから上司に叱られることもない。こんな印刷界で受注競争をすれば、現在の日本のように信じられない安値価格が横行することになる。
●市場経済化 ―― 市場経済化が印刷界に本格的に登場したのは何年位前からだったろう。多分7〜8年前からかも知れない。安値受注は大正時代から印刷界の課題だったが、業界の構造を破壊するようなものではなかった。
市場経済化とは価格も含めてすべての経済行為は市場の論理によって決定されるということ。市場の論理を歪める行為は排除されるべきだが、昔からいろいろな干渉行為があった。談合などは一番幼稚な行為だろう。社会主義、共産主義の計画経済、福祉型社会主義の統制経済、政官主導の護送船団型資源偏在経済・・・・これらの施策はいづれも市場の論理を意識的に歪めるものである。今日でも自民党の執行部政治家の中には市場介入を平気で口にする人もいる。10数年前から、そうした政治が関与する経済は効率が悪いということで、サッチャー氏、レーガン氏などが新自由主義を唱え、国有企業をどんどん自由化し、政府の規制措置を撤廃した。経済の自由化を推進する中で、市場万能主義が一種の価値観として定着し、競争社会が出現した。
日本でも国有鉄道や通信がJRやNTTとなって民営化し、いづれ郵政3事業も民営化されるだろう。確かに市場経済化は経済を活性化するので徹底的に行うべきなのに、今の自民党は利権政党だから表面的なものでお茶をにごそうとする。銀行の高い人件費体質にはメスが入らないし、公共投資はバラまき型だし、ゼネコンの不良債権放棄は全く国民の怒りを買うものだ。市場経済化を徹底的に行うことこそ日本経済の構造改革であり、それがいい加減だから10年におよぶ平成大不況が少しも良くならない。
だからと言って市場経済化は万能ではない、欠点もある。競争原理を進める中で、社会的に各種の格差を拡大してしまう。貧富の格差、能力格差、競争力格差、さらに、一人勝ち社会まで作ってしまう。自由、透明、公正を監視する機関も作らなければならないが、日本では何をやっても中途半端だ。
さて、この競争社会は経済のグローバル化と同根の思想である。競争経済が主張する市場とはグローブ(地球)単位の話である。世界経済の中では同じ製品を作っても、その生産、人件費、材料調達などの環境がすべて異なるから、コストが国ごとに異なるのは当然である。グローバルな競争環境になればコストの上では先進国が負けるのは当りまえだから、WTOはルールをこしらえようとするが、途上国は反対する。日本人の繊維製品、特に下着類は完全に中国製品になってしまったし、カメラもTVも韓国や台湾でのOEM製品になってしまった。
いずれにしろ市場経済とは競争型経済を意味する。新しい社会が市場経済化社会だということになれば、前述の格差が拡大し中小印刷界にとっては、厳しい経営を覚悟しなくてはならない。現在の印刷界は、グローバルな競争に巻こまれているわけではなく、国内の競争なのに全く激しい競争状態になり、コスト志向の発想など吹き飛んでしまった。営業活動のパラダイムがコスト志向から市場経済化へシフトしたことは間違いない。従って現在の印刷界の市場経済パラダイムについて、共通の価値観が生れる必要がある。現在は過渡期だから止むを得ないが、新しい時代への道作りだけはしておかなくてはならない。それは競争の前提としてingの経営体質、コストテーブルのある経営を印刷界共通の価値観として認めることである。この二つが共通の価値観として定着すれば、競争の下限についての認識も共通になるから、競争環境も秩序化し、新しい価値観、新しいパラダイムが生れることになるだろう。しかしローマへの道は多分遠いことだろう。
b)顧客満足 ―― 「ニーズ」から「ウォンツ」へ
カスタマードリブン(customer driven)とか顧客満足という言葉は日用語になるくらい常に耳にしている。それでは印刷界において顧客が満足するものは何かと聞かれて、自信をもって答えられる人がいるだろうか。それほど顧客満足というものは単純な概念ではない。しかし着実に変化しているのだから、どのように変化しているのかを確認しておかないと顧客満足へアプローチできないと思っている。
先ずニーズとウォンツの意味から考えよう。数学者の広中平佑氏が大分昔のことだが実に明解に語っていた。ニーズもウォンツも共に「何かを求める」、「不足している」という意味だが、ニーズはどちらかといえば過去から現在までの経験の中で求めているものをいう。一方、ウォンツとは現在から将来に向って、こんな goods & service( 物やサービス)があったら良いなという感情をいう。ともに「何かを求める」のだが、内容は全く異なるものだ。
●顧客ニーズ ―― それでは印刷界で顧客ニーズに応えるとは、どういうことを意味するのだろう。私は、品質、納期、価格の三つに対し、顧客が求めるものに対応することだと思う。この三つに対しては顧客は過去の経験から取引している印刷会社の能力を知っているので、もう少し改善して欲しいという願いがある、それが顧客のニーズである。それに対応することは取引を継続する上で最低の必要条件である。最近、印刷界ではISO取得が流行しているが、これは顧客ニーズへの対応の仕方を、システム化しようという試みだと思う。大変重要なことで、品質、納期、価格を安定させなくては取引の必要条件を満せないのだから印刷界みんなが努力すべきだと思う。そしてISO取得に印刷界みんなが賛同し、理解をし、共通の価値観を持つようになれば、印刷界におけるニーズの水準が一歩前進したのだと思う。
勿論、印刷物は多様化する一方だから顧客のニーズも多様になる。中には事務用印刷物、業務用印刷物のようにリピートオーダの多い、仕様が簡単な印刷物もある。それらはEコマースでオークション取引をし、値段が安ければどこの印刷会社でもよいという無機質な取引もあるだろう。しかし殆どの印刷物は最近ではリピートがなく、一品生産の新鮮な取引である。顧客の満足も次第に複雑になってくる。顧客ニーズに対応するということは顧客の過去の不満足に対応することだから、ニーズに対応できても顧客の満足が大きくなるわけではない。それは必要条件だから品質、納期、価格について顧客の求めるものを必ず守れるようにISOと言う手段を使ってでも確立しなくてはならない。しかしそれだけでは顧客の満足は完結しない。多様になる一方の顧客満足は別の所にあるようだ。
従来の印刷経営では、技術水準も不安定だったので、何しろ顧客ニーズに対応することだけで精一杯の努力だった。私も若い時から得意先に呼びつけられて、品質や納期のクレイムに対し何度も何度も謝ったものだ。何とか安定した印刷経営をしたい、これは印刷人の夢であり、願いだった。従って顧客ニーズを満足することは印刷営業のパラダイムだった。しかし21世紀の印刷界は、もうニーズを卒業しなくてはならない。ニーズはISO運動の中で定着させ、安定させ、印刷経営の体質にまで高めなければならない。その上で、顧客満足の次のレベルを追求しなくてはならない。
●顧客ウォンツ ―― 前述したようにウォンツとは現在から将来へ向っての夢、願望のことである。従って顧客の方でもウォンツに対して明確な形を持っているわけではない。それだけに印刷人としても顧客のウォンツを捕えにくいのだが、いろいろな種類があるので分析をしておく必要がある。製品とサービスがあるし、将来といっても近未来もあるし、中期もある。願望といっても目先のサービスでニーズに近いものもあるだろうし、顧客の販売活動に役立つような企画もあるだろう。
そこで参考になると思うので米国印刷界の調査結果を見ることにする。「今後2年間で、あなたの印刷マーケットの中でもっとも早く成長すると思われるサービスは何ですか?」という問に答えたものだ。 Digital printing, More than 4 color litho, Electronic prepress, 4 color litho, Fulfilment, Web/Internet services, Database management, Database archiving, Mailing, Art/design/creative, Finishing/bindery, Client training/consulting,CD services, Facilities management,・・・・・.
これらのサービスのうち、「4色以上の印刷」以外は顧客が求めている満足だと読むことができるだろう。勿論、4色以上とか4色の印刷が成長すると答えた印刷人も、顧客は従来より多色印刷物さらにスクリーン印刷やフォイルスタンピングまで含めた加工度の高い印刷物を欲しがっていると答えたのだろう。いづれにしろ、ここに揚げたサービスは従来の中小印刷界では余り聞きなれないものばかりだろう。米国の印刷界ではこれらのサービスの中に顧客満足があると考えているようだ。
Digital printing はPOD(print on demand)のことを考えているし、Electronic prepress はカラー校正やCTP用のデータ通信のことを考えている。fulfilmentは企画提案、受注から配送までのコンピュータによる一括管理のことだし、Web/Internet service,Database management,archiving などはIT技術のことだ。こうした電子技術に対する要望が強いのだが、さらに Art/design/creative といった企画提案に対する要望とか、新しい技術に対する教育、コンサルティングなども強い要望になる。
こうした所に顧客ウォンツがあるとすれば、それはすべて電子技術、通信技術、クリエイティブ技術の所である。従って印刷会社はこうした技術については顧客より何歩も先を歩いていなければならないということだ。私が印刷界のテクニカルミニマムとしてデータ処理技術を揚げているのも、そうした顧客ウォンツに対応する最低条件だと思っているからだ。しかし、顧客のウォンツはこれらのものばかりではないだろう。先に述べたウォンツは当面、目に見えたウォンツである。本当のウォンツは別のものかも知れない。顧客だって現在はサバイバル戦争に必死だ。出版界だって再販売価格維持制度が撤廃された後、どのような販売戦略をとったら良いのか未知数だし、銀行だって生残りに夢中である。どんな goods & serviceを印刷界が提供できるのかは分らないが、顧客が求めているウォンツはそういう所にあるのかも知れない。
いずれにしろ印刷営業のパラダイムは「コスト思想からマーケット志向へ!」「そしてニーズからウォンツへ!」とレベルを一段と高めることになった。そうした高いレベルで営業活動をしようと思ったら、先ず第一に営業マンは高い教養を積まなくてはならない。顧客からニーズとウォンツを引き出す力がなければ次の営業活動に結びつかないからだが、顧客は営業マンの人柄、営業努力、責任感、教養、専門知識を常に見ているのだからそれに応えるように常に勉強することだ。第二番目は営業だけで顧客の信用をつかめるものではないということ。製造部門も、企画デザイン部門も、技術スタッフも、みんなが営業マンをサポートしてやる必要がある。いまや印刷経営は総力戦になった。
2001/01/28 00:00:00