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グーテンベルクの債権者、ヨハン・フストの功績

〜ヨハン・フストの功績とペーター・シェーファーの印刷文化史への貢献〜

15世紀中頃、グーテンベルクによる活版印刷術の発明で、ヨーロッパの情報メディアは写本時代から印刷本時代を迎えた。

早稲田大学図書館司書、同大学教育学部講師(図書館学)の雪嶋宏一氏によると、同世紀末までの約50年間で、印刷術は、北はスウェーデンから南はシチリアまで、西はポルトガルから東はコンスタンティノープルに至る地域の250都市以上に伝播し、延べ1100以上の印刷所が開設され、推定約4万版(現存3万版)が刊行されたという。これら半世紀の間の活版印刷本が、インキュナブラと呼ばれている。

活版印刷技術の発明家として常に脚光を浴びるのは、グーテンベルクである。そのグーテンベルクの印刷所と印刷機材の一切を抵当として取り上げた実業家、ヨハン・フストは歴史上の功罪者に見られがちであるが、実は、上記の印刷術の普及には、フストの功績が多いに寄与しているといえるのである。

厳密に捉えれば、フストの娘婿となったぺーター・シェーファーの功績によるところが大きい。シェーファーは1425年頃にゲルンスハイムで出生し、金細工師でありながら、ソルボンヌ大学で神学とラテン語を学んだ。写字生であり、かつ能書家としても知られていた。

実業家・フストは、1452年頃、グーテンベルクに対して800グルテンという、当時の 物価においては家が建てられるほどの高額を貸していた。しかし、グーテンベルクが 1455年に42行聖書を完成したのち、債務不履行に陥ったため、フストは抵当となって いたマインツにあるグーテンベルクの印刷所と、活字や印刷機などの機材一式を手に 入れた。

そして、グーテンベルクの助手であったペーター・シェーファーを共同経営者として 雇い入れ、1457年に「マインツ詩篇」を印行させたのである。シェーファーは、フス トの娘、クリスティーナの家庭教師であり、のちに娘婿となり、フスト亡き後は、後 継者として経営全般に携わることになる。

シェーファーの作品には、3色の色刷本である「マインツ詩篇」「ミサ典書」「典礼大全」などがある。また、頭文字を手彩色によって美しく装飾した48行聖書をはじめ、 キケロの「義務について」を印刷し、ルネッサンス古典復興の先駆けとしたほか、ラ テン文字を改良して作成したギリシャ文字の活字などがあげられる。

また、当時存在しなかった「商標」としてのプリンターズマークや、タイトルページや奥付、さらに、のちに出版販売事業も手がけるなかで、世界で初めて書誌目録や販売広告物を作成・印刷するなど、新しい概念を世に生み出したことも、大きな功績としてあげることができる。

一方で、活版印刷術が誕生するまでは写本時代の全盛だったが、写字生たちの仕事が奪われたため、労働争議的な出来事もあったという。なかには、写字生から印刷工に転職するものもいたということである。20世紀においてコンピュータの出現により、多くの職業が衰退したことと同様、15世紀の労働市場における印刷技術の影響は大きかったといえる。

このほか、1462年には、マインツで勃発した戦乱により、フストとシェーファーの印刷工房が被害にあったことから、工場の印刷工が各地に分散し、それによって活版印刷技術は各地に広まったという事実もある。

グーテンベルクの発明を、フストとともに商品として輩出したシェーファーは、1503年にこの世を去るまで、印刷業および出版業に従事したが、その肖像は残されていない。

(印刷博物館・ヴァチカン教皇庁図書館展・講演会より)

早稲田大学・雪嶋宏一氏:http://faculty.web.waseda.ac.jp/yukis/

印刷博物館:http://www.printing-museum.org/

2002/06/23 00:00:00


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