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デジ放談♪番外編/Ayaの返信(1)〜良い組版とは〜

拝復,前田様。
 この原稿を執筆している時点で既に立秋を過ぎているわけですが,暑い日が続きます。特に私にとっては,割とハードな内容のムック編集業務が大詰めを迎えており,心身共に暑く熱い季節となりました。その中で,前田様のお便りを拝読することは,ものごとの本質的な面について目を向けさせられる行為であり,ある種の清涼剤としての効果を与えてくれました。さまざまな示唆に富むテキストを,どうもありがとうございました。特に,私が抱いていた大きな疑問──「オープンな組版ルール」の存在や「読みやすさ」の理論的な根拠・妥当性についての疑問に対しては,さまざまな資料やヒントを改めて提示していただき,今後の勉強にとっての大きな参考となりました。「夏休みの友」以来,久しぶりに大きな宿題をいただいた,という気もするのですが……。

 【フォーマットと組版ルールにかかわるいっさいの権限を組版の設計者と施工者に与えよ】という前田様のご提言は,もっともなこととして拝読しました。また,ライターであり編集者である,つまり組版のプロに権限を委ねるべき側の立場にある私自身としても,やはり割ける労力や蓄積される経験などを考えれば,安心してお任せできる,体現すべき内容をきちんと理解してくれる組版担当者に権限をとっていただきたいものだと切望します。私の勉強はあくまで「内容について責任を持ちたい」がためのもので,組版について最低限のことは理解しておくという範囲を超えられるものではないと思います。

 とは言うものの,それが可能か否かは結局,金銭の問題に還元されるような気がしてなりません。さきに私の挙げた,日々のルーチンワークに埋没せざるを得ない状況もその一例ではないかと思います。自分が作り出すフィニッシュワークの質に無自覚な場合ですら,その根本には,クライアントが何に価値を認め支払いを行うのか,ひるがえっては,そのプロダクトを受け取る読み手が何に価値を見いだし対価を支払うのか,という問題がよこたわっているのではないでしょうか。このとき,組版に対して責任を負うべき・負いたいと考えるプロフェッショナルは,誰に対してどんな範囲で何を主張していくべきなのでしょうか。

 前田様は「組版は誰のものなのか」という視点から,読み手が組み手に変わる・重なる現状という,文字組みの定義の根幹に関わるダイナミックな変容について指摘されました。そして【変化による「悪いこと」の裏には必ず「いいこと」がはりついています】と,一部の人の言うところの「組版の乱れ」は,書くこと・組むことの個人への開放がもたらしたものであると示唆されました。私がまさにその典型で,少額資本の投下で実現できるDTPの登場なくして,私の初めての職場であった広告版下作成屋も,次に所属した編集プロダクションも,存在しえなかったことでしょう。かつてDTPはDesk Top PrepressではなくDesk Top Publishingでした。その煌めきのようなもの,自分が「組んだ」プロダクトの質には気付かず「組める」ことに幻惑されて,私はDTPに手を染めることになったのですから。

 しかし,そういう「個人」も経験を積めば,ある程度自分の組んだものの質が理解できるように/理解したいと思うようになるケースもあるはずです。私が問題にしたいのは,ほとんど専らそういう「アマチュア」(しかしそのプロダクトは公に流通し,生活資金のなにがしかをそこから得ている)の仕事の質は,どうやったら向上させられるかということなのでした。その意味で,「組版は誰のものなのか」という巨視的なテーマを語ることは私には僭越に過ぎます。ただ,「私が問題にしたい『組版』とは,誰の立場からのものなのか」を整理し考える手懸かりとして,前田様の見解は,示唆に富んでいます。

 そこから考えたことの一点なのですが,前田様の言われる【書くことの個々人への開放】は,「組む」ことについても言えるのでしょうか? というのは,確かに書くこと組むこと自体はユーザーの手許で,ユーザーの任意に,そして何より重要なのは安価に,行われているように見えるのですが,その組版エンジンの存在は前にも増して透明な(知覚されない)ものになっているように思えるからです。無自覚な人が無自覚に行う「組み」は,具体的なソフトウェアの下支えなしには存在し得ないはずです。そのとき,無自覚の快適さを提供しようとすればするほど,組版エンジンの存在は透明化に進むでしょうし,それは一般的なユーザーにとってはブラックボックス化をも意味するのではないでしょうか?

 プロフェッショナルとアマチュアの境界は本当に「不分明」になっているのでしょうか。どうも私には,意図的に組む人と,ソフトウェアが与えてくれる機能をほとんどデフォルトのまま使用する人──言うまでもなくソフトウェアは,少数の人が設計し,少数の企業が販売流通させているのが現状ではないかと思うのですが──その境界は決して消えていないように思えるのです。それが良いこととも悪いこととも言えませんが,(私自身が,その恩恵とジレンマの双方を享受しているわけですから)いくつかの考えは浮かんできます。

 まず,この「開放」が今後さらに進むとすれば,それらデフォルトの機能を作り上げている,ソフトウェア制作者の責任が前にも増して大きくなっていくのではないかということ。前田様が指摘されたような【生産手段の欠陥】を回避することが,その筆頭に挙げられるでしょう。それに加えて,組版に何らかの「注意を向ける」ようなソフトウェアデザイン,ユーザー自身が,いま自分の見ている組版が自分にとって心地よいのか悪いのかを考えるきっかけとなるようなソフトウェアデザインは成り立ち得ないでしょうか?

 このことは一見「透明性」と矛盾するようですが,例えばMacOSのGUIがWindows登場の際,一部で改めて評価されたように,不可能なことではないようにも思えるのです。「マニュアルを見なくても使えるMac」は,その優れたGUIの設計によって成り立っていたものであり,そのGUIは,人間の認知のあり方を適切に観察し構築されている点で,「読む」ことを前提に行われる組版とも何らかの共通点がありはしないでしょうか。と言っても,このケースも,他との比較があってようやく再認識されたわけなのですが……。

*-*-*-* プロフィール *-*-*-*

●Aya: 大学在学中,デザイン事務所の月給取りと学生の二足の草鞋をはき,DTPオペレーション技術を修得。卒業後大学の先輩と編集プロダクションを起こし,その後フリー編集者/ライターに。クラフト誌,DTP関連雑誌等の執筆,編集を手がける。一貫した零細エンドユーザー指向?は,趣味の海外旅行を続けるためとか。最近は手製本教室に夢中。DTPエキスパート。神戸生まれの京都育ち。乙女座,O型。

●前田@ライン・ラボ: 

MIE®

 写植,DTPによる組版をへて現在は多言語処理や自動処理組版などを中心に プリプレス分野でのディレクター業のかたわら東亜文字処理ライン・ラボの ページ http://www.linelabo.com/ を運営。 1974−75年『労務者渡世』編集委員会代表,1996−98年日本語の文字と組版を考える会世話人,1996−99年日本規格協会電子文書処理システム標準化調査研究委員会WG2委員, 2001年−句読点研究会世話人。藤山直美と同じ山羊座の大阪生まれ。A型。



*-*-*-* デジ放談♪ バックナンバー *-*-*-*

2002年3月6日UP!その1(プレ放談)
2002年3月20日UP!その2
2002年4月10日UP!その3
2002年4月21日UP!その4
2002年5月9日UP!その5
2002年5月25日UP!その6
2002年6月6日UP!その7
2002年6月23日UP!番外編/Ayaの往信(1)
2002年7月5日UP!番外編/Ayaの往信(2)
2002年7月18日UP!番外編/前田@ライン・ラボからの返信(1)
2002年7月30日UP!番外編/前田@ライン・ラボからの返信(2)
2002年8月13日UP!番外編/前田@ライン・ラボからの返信(追伸)

MIE®


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2002/08/16 00:00:00


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