アーカイブス(archives)とは本来,公記録・歴史文書の保管所を意味する言葉である。そしてさらに,《The encyclopedia is an archives of world history(百科事典は世界史の記録保管所である)》[ランダムハウス英和大事典]などとも使われてきた。昨今のIT時代を反映する話題は「デジタル・アーカイブス」である。デジタル・大記憶容量・高速データ処理・ネットワーキング環境の進展で「アーカイブス」は,新たな進化の時代を迎えている。
報告者の身の回りでも最近,2つのデジタル・アーカイブスの発表があった。第1は本年2月1日テレビ放送開始50年の当日,埼玉県と川口市が開発を進めている「SKIPシティ」にオープンした表題の「NHKアーカイブス」であり,第2は総務省と山形県の肝いりで通信・放送機構が,山形県産業創造支援センター・東北芸術工科大学を結んで設置したペタバイト級マルチユースアーカイブ・プロジェクトの最終報告書『大容量アーカイブ活用型放送番組制作基盤技術の研究開発』が3月に提出されたことを指している。報告者が放送畑の出身なのでこの手の情報が多く飛び込んでくる。
これらの話題を,印刷産業とは遠く離れた別世界のできごと,と認識することは最早誤りである。もとの情報が文字や図形であろうが,音声や音楽であろうが,静止画や動画であろうが,コンピュータのデータであろうが,現代のデジタル信号の世界では本質的な差などないに等しい。
なお,「SKIPシティ:Saitama Kawaguchi Intelligent Park 都市」とは,埼玉県 と川口市がNHKの旧川口ラジオ大電力放送所跡地15haを再開発し,「さいたま新産業拠点」として映像産業の集積と振興を目指す地域の愛称である。
現在この地域にはNHKアーカイブスの他に,彩の国ビジュアルプラザ(埼玉県映像関連施設)・産業技術総合センター・生活科学センター・サイエンスワールド・早稲田大学川口芸術学校などが設置されている。
■印刷出版と放送,隣接しているビジネスモデル
デジタル・アーカイブスが私たちの共通の関心事であることを確認するために,せっかくの機会だから雑誌の印刷出版とテレビ放送を例にとって,簡潔にビジネスモデルを比較しておくことも無駄ではないだろう。
印刷企業の川上には出版社や広告代理店があり,またその川上では作家やジャーナリスト・情報提供者,コピーライターやイラストレータ,写真家やモデル,スタジオの関係者などが活動している。出版社には,経営と編集機能を中核として,営業や進行管理,購買などの機能があり,外部の編集プロダクションなど関連協力企業がある。
印刷企業は,営業努力によって発注を獲得できれば,雑誌を印刷・製本するために必要な原稿各種のデータ,印刷注文書を手にする。そして,用紙やインク・各種の消耗品の供給などいろいろな協力企業が存在する。
印刷業の川下には,運送業者や雑誌・書籍の取り次ぎ店,書店があり,エンドユーザーである購読者へとつながる。このビジネスモデルにおけるすべての費用は,最終的に購読者と広告主が負担する。それぞれのセクションは顧客満足と,もらってナンボ,はらってナンボ,残ってナンボの利益管理を指標として活動している。
テレビ放送の場合もハードウエアや組織は違うが,一般大衆を顧客として情報をクリエートし分配する,という本質的な機能では類似している。例えば,NHKの本部における番組クリエート組織は次のようになっている。
放送総局(アナウンス室・解説員室…),編成局(編成・スペシャル番組…),番組制作局(社会情報番組・青少年こども番組・教育番組・教養番組・科学環境番組・ドラマ番組・芸能番組・音楽伝統芸能番組・映像デザイン…),報道局取材センター(政治・経済・社会・科学文化・国際…),同アジアセンター,同スポーツ報道センター…,衛星ハイビジョン局,マルチメディア局(アーカイブス・著作権センター・デジタル開発),放送技術局,ラジオセンター,国際放送局…。なお,NHKにおける番組制作は,デレクター,プロデュサー制をとっている。
もちろん,NHKも本部ですべての番組を制作しているわけではない。名古屋や大阪などの拠点局(かつての中央放送局)の他に,県庁所在地ごとに放送局があり,いろいろな番組制作関連企業の協力を得ている。デジタル・アーカイブスの主な使い手は,現在のところ本部中心であるが近い将来すべての番組制作現場に拡大される。
放送素材は,現行方式のテレビでは主としてD3と呼ばれるデジタルVTR,ハイビジョンではD5と呼ばれるデジタルVTRに記録され,編集され,完成番組テープとなり,編成表に従って放送され,保管され,所定の基準に従ってアーカイブスに収蔵される。定時ニュースや大相撲中継などの生番組も類似の処置が取られる。
現在NHKは,5種類の電波を使ってテレビ放送を実施している。地上波の総合・教育・アナログ衛星放送第1・第2・デジタル衛星放送ハイビジョンであるが,印刷情報の運び手である「紙」に対応するものがこれらの「電波」であり,「刷版」に対応するのが放送所における電波の「変調」と呼ばれる電子的操作である。
川下の部分は,放送局は受信機をインターフェースとして直接的にエンドユーザーである視聴者と直結することを原則としてきた。しかし,わが国でもCATVが徐々に普及することで様相が変わってきている。この場合CATVは,印刷出版における雑誌・書籍の取り次ぎ業や書店に相当するといえないこともない。
そして,2010年を目途とする地上波のデジタルへの移行,インターネットのブロードバンド化と通信費用のローコスト化などを考慮すると,一般消費者を巻き込んで印刷も放送も川下が従来のビジジネス感覚からすると比較的に早いスピードで多様化に向かうのは必定である。
この際,特殊法人NHKのビジネスモデルの特殊性について簡単に説明しておこう。NHKは広告放送とは無縁である。運営は視聴者が支払う受信料でまかなわれている。受信料の性格は,税金でも放送番組の対価でもない。平たく言えばNHKの放送を維持するための協賛金である。
NHKにも営業と呼ばれる部門は存在する。営業は,受信料の収納率を高め視聴者負担の公平性を確保するために存在する。NHKには利益予算はない。NHKとは工場原価で番組を視聴者に届ける皆さんの放送局なのである。従って,番組に対する顧客満足の維持と経営内容の透明性の確保が極めて重要であり,視聴者会議をはじめいろいろな仕組みが作られている。
■NHKアーカイブス
NHKではアーカイブス建設の目的は3つあると説明している。すなわち, 1.NHKがこれまで制作・放送してきた膨大な映像・音声コンテンツを,国民共有の文化資産として一元的に保存し,継承していく 2.蓄積したコンテンツを貴重な経営資源として活用し,豊かで多彩な番組作りに生かしていく 3.無料の「番組公開ライブラー」や,副次収入増も目指した2次展開によって広く社会に還元していくの3点である。
NHKアーカイブスは延べ床面積10,845u,地下1階地上8階の鉄骨鉄筋コンクリー ト構造のビルに収容されている。2階がエントランスと誰でもが無料で利用できる「番組公開ライブラリー」のスペースである。
3,4階が「保管庫」で,すでに述べたD3,D5デジタルビデオテープを基本として180万本の収容能力を持つ。5階が「コピー・伝送室」で,保管庫から取り出したオリジナルテープをコピーする3系統の装置があり,大容量専用光IP回線を使い同時に8系統の映像を放送センターに伝送する機能が収容されている。
6階の「データベース・センター」では,保管する番組内容の補足や権利情報などあらゆるデータを収集する。ユーザーが検索するための各種情報を「総合データベース」に登録する。7階には事務室のほか歴史的映像の修復・復元を行う「制作関連室」がある。8階が「システム管理室」で「総合データベース」を中核とし,「参照用動画サーバー」や各種のサーバー,大容量のディスク装置が設置され,アーカイブス全体の情報を管理している。
例えばユーザーが放送センターで,イントラネットに接続されている自席のパソコンのweb画面からアーカイブを検索すれば,文字情報に加えてMPEG4画質の「参照用動画」や,代表静止画のついた「番組構成表」などで映像の内容を確認することができる。また,カットごとに,出演者や使用音楽・利用条件などを記録した「権利情報」など,再利用のための情報を知ることもできる。
アーカイブスがオープンしたことでNHKでは,これまで専用端末で検索していた音声コンテンツや写真の検索も一元的に行えるようになった。そして,自席のパソコンから媒体借出申請を行うことができる。
NHKの本部で管理しているコンテンツは73万本。その内の59万本が新しいアーカイブスに収容された。その内容は,テレビ番組の完成番組テープの他に,未編集素材,ラジオ番組テープ,編集済フィルム・素材フィルム,放送から10年を経過したニュース素材などである。古いものでは,外部から購入した1917年のエジソンの映画フィルムなどや,50年前のテレビ開始時代にNHKが制作した「NHK短編映画」など歴史的価値の高いものが多数含まれている。
アーカイブスのコンテンツは,今後1年ごとにD3ビデオカセット・テープ換算で約4万本の増加が見込まれている。保管庫のキャパシティーは180万本なので,計算上の耐用年数は30年ということになる。
膨大な映像コンテンツ等を保存・管理し活用していくための頭脳となるのが「総合データベース」である。主な機能は,データ入力機能・動画/静止画作成機能・検索/発注機能・参照動画配信機能・貸出管理機能・運行/運用監視機能である。
システム構成は,各サーバーと端末がIPネットワークで接続されており,セキュリティ,トラフィック分散を行うために,いくつかのサブネットワークLANにより,ネットワークを分割している。システムは2重化されておりノンストップ運用である。
「総合データベース」は,DBサーバ・webサーバ・検索アプリケーションサーバ・入力/貸し出しアプリケーションサーバ・他システム連携サーバ・参照用動画登録サーバ・参照用動画配信サーバ・試写同録装置・運行/運用監視装置などで構成されている。具体的なシステムの構築は,日本電気(株)メディア・エネルギーソリューション事業部が担当した。
「参照用動画アーカイブ」は,NHKアーカイブスの映像コンテンツをユーザーが自席のパソコンでモニターできるようにするためのもので,MPEG4マスターファイル管理とDVD-RAMカートへのコンテンツの保存/読み出しを実行する。システムの構築は日本SGI(株)が担当し,DVD-RAMカートは松下電器産業(株),MPEG4ソリューションは(株)アイ・ビー・イーが担当した。
保管庫の構築は,金剛株式会社が担当した。システムは,報告者がかつてNHKに在籍した時代に本部放送センターに構築した経験を持つ全自動のロボット型ではなく,担当者が無線式ハンディー端末の指示に従い保管庫の電動式移動棚を操作し,媒体の出し入れを行う半自動方式となっている。
デジタル技術は日進月歩である。それほど遠くない将来に,各種アイテムの記録方式が革新されることも視野に入れておかなければならない。保管庫50万本分のスペースは,現在はフリースペースとなっている。
収蔵されているコンテンツはオリジナルであり,ユーザーへの貸し出はそのコピーを取って実行される。タイムラグは,緊急用途を別としてユーザーが自席のパソコン端末から申し込みをしてから半日が目安である。
「番組公開ライブラリー」では,VODサーバーを使用して大河ドラマや紅白歌合戦,NHK特集,新日本紀行など著作権等をクリアーした2000本の番組の中から自由に検索して視聴できる。公開番組は3年後には5000本に増強される予定である。
NHKアーカイブス2階の「番組公開ライブラリー」のブースは全部で80席あるが,ネットワークを通して放送センターと放送博物館,放送技術研究所の視聴端末にもVODから番組が供給されている。将来は全国の放送局に端末の設置を予定している。ハイビジョン・ディスプレイは32インチPDPを使用,映像信号はMPEG2,検索用信号はMPEG4で分配される。
NHKアーカイブスについて技術的にこれ以上詳しい情報を必要とする場合は,次の文献を参照することを推奨する。[森 明巳他:NHKアーカイブスの設備概要〜2003年2月 映像文化の拠点が誕生〜,放送技術,56.2,兼六館出版(株),2003年2月, PP112〜130]
■アーカイブスの評価
わが国でテレビ放送が開始されたのは1953年,NHKが2月1日,NTVが8月28日のことであった。テレビ50年,この節目の年にNHKアーカイブスが完成したことは,文化の進化にとって大きい意味を持つ。
モノと言葉(情報)が一体の文化要素は遺伝的に継承される。ヒトの進化とは,遺伝子DNAと文化の共進化である。出版文化はグテンベルク以降,西欧の宗教革命と中世社会に変革をもたらし,さらには産業革命を押し進め,西欧の工業化文明を創りだした。いずれにしても,教科書や書籍・雑誌の普及と近代図書館の発達がなければ科学技術の進展はなく,テレビやコンピュータも実現されず,現代は大きく違ったものとなったろう。
前世紀後半,テレビ放送が世界に急速に普及しグローバル化することで,ヒトのメディア環境が大きく変わった。わが国では,平均で一人一日3時間以上もテレビを視聴している。その肯定的な面・否定的な面を,内外の多くの有識者が議論してきた。カナダのメディア学者マクルーハンは,《メディアは人間の拡張》であると指摘した。
《画角10度の千里眼》テレビと呼ばれる新しい感覚器官を身につけた大衆は,流行と金銭に鋭敏になった反面,1年前は遠い過去となり,50年の昔が神話になる。
ホームVTRやDVDなどの録画機器は普及したが,その役目は番組の視聴時間をシフトさせるためのものでしかない。テレビのコンテンツは,消耗品である。常に現在の新しい話題が提供され続ける。同様の現象が雑誌や書籍でも起きている。さらに,多様な情報の消耗品化が進んでいる。その蔭で本質的に重要な情報が埋もれてしまう。
だがこれは,テレビ放送を含む現在の電子メディアの文化が,未成熟なことに原因がある。ネットワーキングされたデジタル・アーカイブスは,文化に進化をもたらす新たなステップとして報告者は高く評価している。今回の「NHKアーカイブス」と「番組公開ライブラリー」の実現は,大いに意義がある。
進化は多様化が本質である。そして,淘汰圧力に打ち勝って生き残ることに唯一の価値がある。このことは企業文化の進化についても当てはまる。自らの企業文化とは何か? 先に指摘したように文化要素はモノと情報が一体になったものである。印刷企業文化の多様化,そして淘汰圧力,生き残り(顧客満足の創造と維持),結果としての利潤。今や企業経営にもネットワーキングされた「総合データベース」の構築と活用が不可欠になってきている。いかにして合目的な総合データベースを構築するのか?
現在は常に揺らいでいる。だが意識的選択・無意識的選択・偶然の選択・自然の選択など,すべての選択が決定した過去は必然で変えようがない。歴史の知恵を活用するためには,脚色された政治史や偉人伝よりも,過去のモノが語る真実の言葉に私たちはもっと耳を傾ける必要がある。アーカイブス/ライブラリーとミュージアムの連携も必要だ。
2003/03/19 00:00:00