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活字書体から写植書体、そしてデジタル書体(3)─フォント千夜一夜物語(36)

活字の世界で多書体化といえば、明朝体、ゴシック体、楷書体、教科書体などの基本 書体の範囲にとどまっていた。それに比べて写植の世界では、第1次期の1970年頃までは 基本書体の整備に充てられていた。

写植メーカーの写研/モリサワは、和文基本書体のファミリーや楷書体、教科書体など を昭和初期からの約30年間で制作している。写植の普及にともなって、書体開発は自社制 作だけでは間に合わず、活字・母型メーカーの晃文堂書体、モトヤ書体、イワタ書体など の既存書体のライセンスを受け文字盤化している。

1962年に「タイポス」という、ひらがな・カタカナの斬新な書体が誕生した。漢字は石 井明朝体を前提として開発されている。「タイポス」は、戦後のモダーンタイプフェイスの 代表格で、グラフィックデザイン、グラフィックアーツの世界に一大ブームを起こした。 新書体が生れたり、既存書体のある書体が突然よく使われだすという背景には、偶然で はなく社会的ないろいろな要素が絡んでいる。

この「タイポス」は、伊藤勝一・桑山弥三郎・長田克巳・林隆男をメンバーとする「グ ループ・タイポ」により開発された。そして写植文字盤として1969年(株)写研から、「タイ ポス35・37・45・411」のファミリーとして発売され、その後1972年に、「タイポス44・ 66・88・1212」などのファミリーが続いて発売された。(図1.参照)

図1 タイポス37

1969年(昭和44年)当時の社会情勢は、「東大安田講堂事件」があり、「アポロ月着陸 に成功」などが話題になり、経済的に高度成長期のピークであった。しかも生活思想は合 理的な物の考え方、企業は合理的な生産主義がベストとされ、消費が刺激され服装などの ファッショナブル化の始まりであった。

1969年は、CTS(Computer Typesetting System)と呼ばれた、汎用コンピュータによる 全自動組版システム「FACOMシステム」が富士通から発表されたときでもある。活版組版 の合理化として凸版印刷/大日本印刷など大手印刷企業が導入し、コンピュータ組版の幕 開けとなった

そして同時期に、写研から電算写植機の「サプトン・シリーズ」が発表され、電算写植 システムの黎明期となっている。この頃の使える書体といえば、本文用の明朝体/ゴシッ ク体のみであった。

従来から「本文組み用の書体は、空気のようにその存在を感じさせないものが良い」と いわれているが、タイポスはその概念を破るように文字の存在感を示している。

1990年頃ベストセラーになった、黒柳徹子著の「窓ぎわのトットちゃん」の文章組みに 使われている活字のことが話題になったことがある。このようなことは今までになかった ことだといわれたが、本文組みに使われた書体が「タイポス」である。(『書体を創る』林 隆男著より)

●歴史に「もし」があったらば!
1970年頃、第1回石井賞創作タイプフェイス・コンテストが行われた。この第1回石井 賞に輝いた書体が「ナール」(中村征宏制作)である。

そのデザインコンセプトは、単なる丸ゴシック体ではなく「ふところ」を広くとり、文 字枠一杯にデザインされた、あか抜けた丸ゴシック体で、1970年代を象徴する書体といえ よう。その後石井賞タイプフェイス・コンテストは、「スーボ」(第2回コンテスト・鈴木 勉制作)、「スーシャ」(第3回コンテスト・鈴木勉制作)などの創作新書体を生み出してい る。(図2.参照)

図2 上からナール、スーシャ、スーボ

写植を使うことなく、印刷物を制作する現代のDTPユーザーの多くは、「タイポス」や「ナ ール」という書体には馴染みが薄いであろう。名前すら知らないDTPユーザーは多い。

これは写研フォントが、DTP用フォントとして市場に門戸を開いていなかったからであ るが、これは企業方針の違いでやむをえないことであろう。

しかし今後ますますパソコンによるDTPが普及するなかで、多くの優れた写研書体が消 滅して行くのを悲しむ人々は、グラフィックデザイン、グラフィックアーツ関係業界のな かで少なくないであろう。

歴史に「もし」はないが、写研が自社システムにこだわらず、DTP市場にオープンな姿 勢を展開していたら、日本のDTP環境は大きく変化していたことであろう(つづく)。

フォント千夜一夜物語

印刷100年の変革

DTP玉手箱

2003/11/01 00:00:00


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