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活字書体から写植書体、そしてデジタル書体(8)―フォント千夜一夜物語(41)

活字書体といえば楷書体、明朝体が代表的な書体として知られているが、なかでも文字印刷における明朝体の変遷は奥深いものがある。 そこで明朝体に関して、歴史的な歩みを多角的に検討してみたい。

活版印刷の原点でもあり、かつまた1世紀にわたる伝統を堅持してきた明朝体は、現代にいたっても日本語を表す代表的書体として君臨している。 その理由は何か。興味深いものがある。

明朝体の特徴は、字画の縦線が太いのに対し横線が細いこと、そして始筆部や終筆部に三角形のウロコ(セリフ)がついていることである。 また縦線、横線が直線であるのに対し、右払いや左払い、ハネなどが曲線になっていて、いわゆる伝統的な毛筆の曲線と、現代的な幾何学的直線によって構成されている。

これらの要素は眼に親和性があり、明示力に富むことから可読性が高く、見ていて飽きない魅力がある。 これは毛筆を基調とした清朝体や楷書体には見られない特徴である。

他に書体的に優れている点は、小サイズから大サイズの活字にいたるまで、一貫した書体の特徴を活字の大きさに応じて、縦線と横線の比率を変化させることにより可能にしていることである。

しかし明朝体は当初から現在のような美しい書体をしていたわけではない。長年の間に洗練され、歴史的に形成されてきたものである。

オフセット印刷の普及で消滅した活版印刷は、1869年(明治2年)に本木昌造により、長崎(長崎新町活版所)において創始されたことは既に述べた。

その基礎になったのは中国、上海の美華書館においてすでに実施されていた号数活字システムであり、それにならったものである。 そして号数活字の中心である五号活字の書体は、美華書館で整備されていた五号明朝体を模刻したものである。

初期には四号、五号は本文用であった。 美しい明朝体といえる書体ではなかったが、日本の活版印刷、活字書体はこれを起点として出発した。

●築地明朝体の誕生
新町活版所の経営は、1871年(明治4年)に本木昌造から門弟の平野富二に受け継がれ、1872年に東京外神田佐久間町へ進出し、1873年に京橋築地へ移転「東京築地活版製造所」へと発展した。

本木昌造の後継者である平野富二は、活版所の事業を磐石にすると共に、明朝体の改革に情熱を見せ積極的に取り組んだ。 1875年に字母係の小倉吉蔵を上海へ派遣し、母型の製造技術を学ばせた。

また1879年に社員を再び上海へ派遣、五号明朝体の種字の輸入を図った。 揺籃期の五号明朝体は、美華書館のそれを模刻したものであるが、技術がともなわず成功しなかったからだ。 そのため種字彫刻を直接中国へ依頼、輸入したわけである。 このとき中国の技術者を招聘し、その指導も受けた。これが築地活版所の第1次改刻である(つづく)。

※参考資料「活字文明開化」発行凸版印刷株式会社、「明朝活字」矢作勝美著

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2004/03/06 00:00:00


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