大手の築地活版や秀英社の他に、印刷企業として自社書体の母型開発に情熱をもった企業がある。 1913年白井赫太郎によって創業され1925年に精興社と改め、活版印刷の一時代を築いた。
昭和初期に白井は、自社独自の明朝体を創るべく君塚樹石を種字彫刻師として迎えた。 築地体と秀英体の中間スタイルをいく精興社タイプを目標とし、特にひらがなに苦心した。 その頃から精興社の活字書体は広く注目され話題になった。
明朝体は、活字書体にとり入れられてから一世紀を超える年月が過ぎている。 その間、常に文字印刷のトップの地位を占めながら現在にいたっているわけである。 ということは、ほとんどの文字印刷が、明朝体によって表現、記録、伝達されてきたといえる。
このように「明朝体」は、日本語を表す代表的な活字書体として君臨してきた。 今後明朝体に代わり得る活字書体が創造できるかどうか、今後の課題であろう。
●種字が活字書体の命
活字は鉛合金を溶解して、母型と鋳型から鋳造して造ることは前に述べた。母型製造方法にも歴史的背景があるが、母型は種字があって、はじめてできるわけである。つまり活字書体の良し悪しは、種字が命であるといえる。
日本における当初の母型製造方法は、アメリカで開発された電鋳法(電胎法)を、本木昌造がアメリカ人宣教師のウイリアム・ガンブルから伝授されたものである。
この電胎法による母型製造は、日本では細々ながら1960年代まで行われていた。電胎法は、柘植(つげ)の木を活字の原寸大に造り、その表面に彫刻刀で逆文字に彫刻し種字を造る。
次にその種字から蝋盆で文字を型取り、これに伝導性を与え胴メッキをして、凹型の「ガラハ」というものを造る。このガラハを母型用の真鍮のマテ材に嵌め込み母型とする。これが電胎母型で、通常「ガラ母型」と呼ばれている(写真参照)。
したがって活字書体の良し悪しは、この種字彫刻師の腕にかかっている。前述の「築地明朝」や「秀英明朝」あるいはゴシック体などは、多くの名人彫刻師によって多様な書体が生まれた。
しかし「築地体」とか「秀英体」といっても、各時代の彫刻師により書体の味わいが異なっている。一言で「築地明朝」とか「秀英明朝」といわれているが、活字の大きさ(ボディサイズ)により書体の特徴が異なっている。つまり種字の彫刻師が違えば、書体も異なることになる。
したがって、本当の「築地明朝体」はどれか、本当の「秀英明朝」はどれか、ということが論議になることがあるが、それは一概にいうことは難しい。
秀英体でいえば三号か四号、あるいは五号が代表的な秀英明朝体ともいわれている。しかしそれぞれ彫刻師が異なっているため、書体の特徴は微妙に異なっている。改刻されると、その特徴は変化しているわけである。
母型製造の電胎法は1940年以降、種字彫刻師の消滅により衰退していった。加えて大手印刷企業は、ポイントシステムへの切り替えが急務となり、ポイント式母型改刻が急がれた。
とりあえず鋳型だけをポイントシステムに切り替え鋳造したものの、母型の字面のサイズと鋳型のサイズが不具合を起こすなど、品質上の不具合を起こすという問題があった。そこで母型改刻のため、非手工芸的な機械彫刻の必要性が高くなってきた(つづく)。
※参考資料「活字文明開化」発行凸版印刷株式会社、「明朝活字」矢作勝美著
写真 電胎母型(左)、柘植の種字(右)(リョービ株式会社発行「アステ」創刊1号より)
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2004/04/03 00:00:00