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活字書体から写植書体、そしてデジタル書体(11)−フォント千夜一夜物語(44)

戦前まで母型製造の主流であった種字彫刻による電胎母型の製造技術は、1950年代の半ばには終焉を迎えていた。そして種字彫刻師の滅亡により復活することはなかった。しかし使用頻度が低い活字、つまり外字に相当する活字を、「直彫り(じかぼり)」という方法で活字供給をする職人は少数ながら存在していた。

しかし、一揃え数千文字の種字彫刻が可能な優れた彫刻師は皆無であったため、電胎母型は消滅していった。しかも種字彫刻による電胎母型は、母型制作に多くのエネルギーと時間を費やすことが障害になっていた。

代わって新しい母型製造法として、量産化のために登場したのが「ベントン彫刻機」である。ベントン彫刻機は1884年に、アメリカのLinn Boyd Benton(リン・ボイド・ベントン)によって考案された。

この方式は、パンタグラフの原理を応用したもので、一つのパターン(文字原版)から大小文字の母型を精密に、マテ材(母型材)に彫刻できるのが特徴である(図参照)。

戦前から戦後にかけて、各社保有の電胎母型は年月を経るにしたがって劣化し、活字品質が低下してきたことから改刻が急がれた。加えて各社ともポイント活字への切り替えが急務であった。

ということはポイント活字に対応する母型と鋳型が必要になる。長年号数システムで運用してきた活版印刷は大きな変革を迫られたといってよい。

●ベントン彫刻による活字書体の改刻
ベントン母型による改刻は、活字や母型の品質を向上させただけではなく、活字書体設計にも大きな改革を及ぼした。

号数制とは異質のアメリカン・ポイント活字を日本へ導入したのは1903年、東京築地活版製造所支配人の野村宗十郎といわれている。その後1911年に秀英舎(後の大日本印刷)もポイント活字を制作し、ポイント活字が普及し始めた。

しかし号数とポイントの体系が入り混じり組版上混乱が生じた。その結果1962年に、和文活字のJIS規格が制定されポイントに統一された。

とはいえ各印刷企業では、ポイント・システムへの切り替えは急には対応できなかったため、その後も号数活字は使われていた。つまり活字鋳造には、母型と鋳型を必要とするからだ。

ポイント活字用鋳造機の鋳型製作は、鋳造機メーカーに発注すれば容易であるが、母型制作は簡単には実現しない。しかもいまさら電胎母型では間に合わない。

とりあえず鋳型をポイントサイズで造って鋳造したが、号数の字面とポイントの鋳型の鋳込みサイズが合わないため使いものにならなかった。

そこで導入されたのは、母型の量産化が図れる母型彫刻機である。1949年に津上製作所が大日本印刷と三省堂の協力の基に、ベントン彫刻機を模倣した国産の母型彫刻機を製造し、1号機が大日本印刷に導入された。そして技術指導は三省堂から受けた。これが彫刻母型の始まりで「ベントン母型」と呼ばれた。

1950年〜1960年代に大手印刷企業、新聞社、活字母型販売企業などは、こぞってベントン彫刻機の導入を図った。この結果活版印刷の品質は格段に向上したが、ベントン母型の隆盛期は1961年ころまでである。

ポイント・システムに切り替えるだけではなく、母型と活字品質の向上、および活字書体の向上のために、ベントン彫刻母型が活躍した。

既に従来の電胎母型を改刻するには、手工芸的な方法では不可能になっている。このベントン彫刻機の登場は、活字書体が新しい方向を模索し、伝統的明朝体を生かす機会でもあった。 しかし1950年代以降の活版印刷の世界は、それを許すだけの条件は失われていた。この模索指向は、デザインの隆盛とともに発展してきた写植の世界に吸収され花を開いていった(つづく)。

※参考資料:「アステ」リョービイマジクス発行、「明朝活字」矢作勝美

写真 ベントン彫刻機(筆者撮影)

フォント千夜一夜物語

印刷100年の変革

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2004/04/17 00:00:00


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