本記事は、アーカイブに保存されている過去の記事です。最新の情報は、公益社団法人日本印刷技術協会(JAGAT)サイトをご確認ください。

活字書体から写植書体、そしてデジタル書体(14)―フォント千夜一夜物語(47)

秀英体と呼ばれる活字書体は、1950年以降徐々にベントン彫刻母型に置き換えられた。最初8ポイント明朝から始まり8ポイントゴシック、9ポイント明朝そして9ポイントゴシック、6ポイント明朝と続き、そして10ポイント明朝へと整備が進んだ。

9ポイント明朝までは同一パターンを使用したが、10ポイント明朝は新しいデザインコンセプトの版下を造りパターンを作成した。後に12ポイントに対しては、使用頻度の高い文字種の母型のみベントン母型を制作したにとどまった。

そして14ポイント以上の見出し用の活字母型に対しては、原字制作余力が乏しく電胎母型を鋳込み替えて使っていた。

●7ポイント活字の誕生
それまでの秀英体のポイント系列には、7ポイントは存在していなかった。号数制でいえば、六号より小さい、七号より大きいサイズが7ポイントに相当する。六号よりも五号四分だけ小さい活字、つまり五号二分が七号である。

七号は後に「ruby=ルビー」と呼ばれ、欧文活字の5.5ポイントに相当する。つまり五号の振りかなに用いられたので「ルビ=振りかな」という呼称になった。秀英体七号活字で組版された代表的なものに、岩波文庫「読書子に寄す」がある。

7ポイント活字が登場したのは、1957年(昭和32年)5月岩波書店刊行の「日本古典文学大系」「万葉集(1)」である。そこに使われたのが7ポ明朝である。当時岩波書店の出版物を多く手がけていた精興社、大日本法令印刷は、約物を含む、旧字体正字体、俗字などの一式を完備した。

大日本印刷は、7ポイントの必要性は認識していたが、他の母型制作に追われその進捗度は遅れていた。しかし伝統的に岩波書店の出版物の「広辞苑」「岩波文庫」などを印刷していた大日本印刷としては、この大企画の中に秀英体が参画できないのを嘆いた。

当時の営業幹部は、工場に対して7ポイント母型制作の促進の檄を飛ばした。そして秀英体の7ポイントが登場したのは、1958年(昭和33年)6月刊行第14回「古事記 祝詞」である。この裏にはベントン母型彫刻機の力が大いに貢献している。

●活字の直彫り
「活字の直彫り」とは、活字と同じ高さの軸に直接、文字を彫ることをいう。種字彫刻は電胎母型を造るために必要であったが、今は電胎母型を造ることがなくなっている。

またベントン彫刻母型で一書体数千字分を用意していても、特殊な文字が必要になることがある。つまり常備されていない外字である。しかし急には母型制作が間に合わないし、使用頻度が低い文字である。

そこで直接、活字原寸大の木の軸に彫ったものであるが、しかし木版は湿度の変化に弱く伸縮が激しい。それに原版刷りのときはよいが、紙型取りには熱伝導が金属と木では異なり問題があった。そこで鉛金属の軸に彫るようになった。これを「直彫り」という。

この活字は、印刷後には解版し文選ケースに保管しておいて、再度使用することがある。この直彫りの名人の一人に、中川原勝雄がいた。1934年生れで、大日本印刷の市谷工場活版に所属して、数年前に活版全廃するまで貴重な存在となっていた。

※参考資料:「アステ創刊号」リョービイマジクス発行、「明朝活字」矢作勝

フォント千夜一夜物語

印刷100年の変革

DTP玉手箱

2004/05/29 00:00:00


公益社団法人日本印刷技術協会