文字から学ぶもの 創作から感じること
伊藤紘「染め文字」展に寄せて
文字の形は多様であり,文字の美しさも多様である。それを感受する形も,またさまざまである。その発生から,今日に生きる姿までの長い時間を想う時,今という時に出会う文字がどんなものであったかで,人の人生に大きな影響を与えたり,転機になる場合もある。
自分にとって,それは明朝体活字であり,日常的光景の中で,ある時啓示的に輝いて見えたものだ。
フォルムの美というものを,そんな小さな姿の中に見いだした時,多分ほかの造形的なものから受けるものにはない何か,を感じたのだ。陳腐な表現ながら,それが文字との関わりの「運命的な出会い」とも言えようか。仕事や印刷物での接触を経て,今,型染め版画の中で生きる文字たちは,ユニフォーム姿もあれば,カジュアルな装いのものもある。
新書体が氾濫する現代に,長い歳月を経て今も息づく肉筆の文字も,街や生活の中に散見される。そのバラエティ豊かなところへ,さらにデジタル社会から発せられる文字たちが参入して,文字世界は一見繁栄しているように見える。しかしそれは,種類が増えたから豊かになった,という単純なことではないだろう。
一部に見られる,文字を単なる記号と捉え,扱う風潮は危ういと思う。今回の個展(写真)で展示の文字や,写文集で掲載のそれたちも当然,文字への深い愛情と愛着からのものであり,中には,畏怖(いふ)さえ覚えつつ接したものも多い。
文字を介しての来場者や読者たちも,そんな共感があったからこそ,作品との接点が生ずるのであって,文字が単なる記号や,サイン的なものであったなら,一瞬の識別や,効果的か否かだけで用済みだろう。手仕事故に,合理的な完成度が低いのは当然であり,コンピュータが生み出す精度からもほど遠い。しかし人間の肉体から発せられたものが,問い掛けるものは何か,ということを常に考え続けたい。
郷愁でなく,アンチデジタルでなく,まして,人間対電子という対立図式等で見てほしくない。素朴というか人間のもつ原始性,本能が生み出すものに眼を向け,耳を傾けたい。
人間が長い歴史の中で,作り出してきたものの天文学的な数と,気の遠くなるような将来への展望に,たじろぎと,ある種のむなしさを覚えながらも,作り続けるのが人間の業であるのなら,それを受け入れていくしかない。そんなさまざまな思いの中で,文字を見つめ続けている。
さて,作品の内容や制作についてだが,よく色彩の美を指摘される。これは,日本古来の顔料の美しさと,日本の風土が生み出した,和紙との相性が作り上げたもので,人間の企てを超えた妙としか言いようがない。また,作品の幅広さを賛えてくれる方々も少なくない。しかしこれも,日本文化の細部までが,いかに豊穰であるかの証明であろう。
ただ自分は,その一端のささやかな紹介者の1人ではありたい,とは常に思っている。
テーマによっては,割にスムーズに制作できるものもあれば,長い時間熟成されてできるものもある。これはどんな創作に関しても同じだろう。
よく,ひらめき云々を言うが,これもそれなりのベースがあって,初めて生まれる場合が多い。
また技術的なことでも,先人たちが残してくれた言葉に,意義深いものがある。「思いあれば技術は後からついてくる」や民藝運動を支えた陶芸家浜田庄司先生の釉薬(ゆうやく)がけの問いに対して「数秒ではあっても,その背景にはプラス数十年の蓄積がある」の意の言葉は胸に響く。時折,思い起こしては日々の励みとしている。
産みの苦しさは創作者の宿命である。しかし観る人にとって,そんな過程や背景は関係ない。いかに美しいか,興味や関心を示すか,作品から何を感じ取っていただけるか,だけである。
さまざまな視線に晒され,毀誉褒貶(きよほうへん)の渦に投げ込まれても,それに耐え,かすかな確かさと,わずかな喜びを見いだすべく日々努めるしかない。(JAGAT info表紙版画制作 伊藤紘)
(プリンターズサークル2003年6月号掲載)
2004/09/22 00:00:00