今回は「サーキュラー・エコノミー」について考える。
JAGAT 専務理事 郡司 秀明
サーキュラー・エコノミー(その壱)
SDGsについては本誌2018年9月号のこのコーナーで取り上げているが、その意味はSustainable Development Goalsの略称で、エス・ディー・ジーズと発音し、「持続可能な開発目標」ということになる。SDGsは2015年9月の国連サミットで採択されたもので、国連加盟193カ国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標である。具体的に17の大きな目標に分けて、アクションしていこうとするものだ。
「サーキュラー・エコノミー(Circular Economy)」という言葉が、最近言われ出しているが、サーキュラー・エコノミーを一言で表現するなら「SDGsを実践する経済」ということができる。
SDGsが日本で本格的に話題になったのが2017年ではなかったかと思うが、一段落していたところにこのコロナ禍で、再度「サスティナブル(持続的)」が注目されている。どうも「コロナ禍で変化していることは、短期的ではなく長く続く」と認識され始めて、世の中が動き出したということだ。つまり、今までの作って捨てる「直線型経済」から、使い続ける「循環型経済」に変化しなくてはいけないと気が付いたのだ。
このことは、最近北米で言われ始めているようだ(言い出しっぺはEU)。しかし、冬場に暖房温度を高くし過ぎて、暑いといってTシャツ一枚になる(冬場はまだ許せるが、夏場にエアコンを強くし過ぎて、寒いとカーディガンを羽織る)米国人にサーキュラー・エコノミーのことを講釈されたくないが、欧米ではこの発想が行き渡り始めているようである。同じ白色人種でも欧州人はホントに質素だ。ドイツ人は水一滴もムダにしないし、食べ物も絶対に粗末にしない。日本人もおそらく江戸時代までは自然からの恵みとありがたく共存していたのだろう。それが明治の富国強兵で、少し勘違いし始めたのかもしれない。その頃はまだ欧州の感覚が残っていたのだが、戦後(第二次世界大戦後)、大量消費のアメリカ文化が入ってきて、日本人も八百万の神を敬う(別に私は神道信奉者ではないが、「八百万の神と共に」というのを「自然と共に生きる」と思えばよい)ことを忘れてしまったといえる。それが“JAPAN as No.1”を経て、元に戻り始めているのは(これを没落と言うのかもしれないが)、日本にとって良いことだったのかもしれない。物量は米国と中国にまかせればよい(中国と米国は似ている)。日本はやっぱり欧州を規範にした方がよさそうである。それにしてもドイツの生き方は、やっぱり大したものだと感心する(個人的にはメルケル首相の大ファン)。
さてサーキュラー・エコノミーだが、日本にサーキュラー・エコノミー ジャパン(https://www.circulareconomy-japan.com)という団体ができて、そこの専務理事の中石和良氏が『サーキュラー・エコノミー』(ポプラ新書)という書籍を出版している。この本を読むと「サーキュラー・エコノミー(循環型経済)」とは、新しい経済価値を見い出し、選ばれ続ける成長戦略である。つまり、環境への変化を最小限に抑え、同時に最大限の経済効果を得るための経済・産業システムだと説明している。100%うのみにするのは避けるが、このコロナ禍でこれまでの常識とは違ったニューノーマルに様変わりしてしまった今、冷静に考えると「有りかもしれないなぁ」と頭の中に自然に入ってくる。
SDGsというと「道徳」みたいだが、サーキュラー・エコノミーを、SDGsを実践しながらもうけると考えれば理解しやすいはずだ。
1. 「モノを売る」から「サービスを売る」へ
2. 低価格ビジネスは敗者しか生まない(コロナ禍の今、なかなか実践は難しいかもしれないが、これは真実)
3. 責任ある消費方法を企業が提案する
4. 製品寿命の延長と、脱「計画的陳腐化」
5. ESG経営(「Environment(環境)」「Social(社会)」
「Governance(企業統治)」を尊重する考え方)が企業を成長させるということを力説しているので、経済人にもスッキリ頭に入るはずである。今回はさわりだけお話するが、次回サーキュラー・エコノミーの本質に迫りたいと思う。
(JAGAT専務理事 郡司 秀明)