今回のキーワードでは、若い人向けに分かりやすく写真植字機について触れてみたい。
大阪を初めて訪れたころ
モリサワの森澤彰彦社長がJAGATの副会長を引き受けてくれている関係もあり、7月24日に行われたモリサワ主催の「邦文写植機発明から100周年を記念するパーティー」に参加してきた。大阪・中之島のリーガロイヤルホテル大阪で開催されたのだが、最近のホテルは名前がハイカラになって、前の名前が忘れ去られている。昔は新大阪ホテルと言って、「東の帝国ホテル」に対して「西の新大阪ホテル」は、日本を代表する二大ホテルであった。
これが三大ホテルなら、京都の都ホテルか東京のホテルオークラが入ってくるのだろうが、今や都ホテルもカタカナ名が付いてしまってちょっと寂しい。リーガロイヤルは外資が入っているわけではなく、“Royal International Hotel Group & Associates”の頭文字から来ているらしい(?)のだが、新大阪ホテルという名称が古めかしいのか?新大阪駅のロケーションを連想してしまうからか??変更したのかもしれない。
私が初めて大阪を訪問したのは1970(昭和45)年の大阪万博のときだが、その際に大阪独特の雰囲気に感動してしまい、さまざまなことを調べたものだ。「梅田」「中之島(当時のフェスティバルホールは立派だった)」「ミナミ」など、当時の私にとっては訪日外国人観光客のように、見るもの聞くもの全てが興味津々であった。インターネットなどはない時代だから、調べるといっても百科事典で調べてから、各専門書に当たっていった。大変だった分、今でも中身を覚えている(ネットだったらスッカリ忘れてしまっていた?だろう)。
短かった電算写植の時代
さて、記念パーティーには全国から800名以上の印刷関連のVIPが集まり、久々に盛大な催しであった。そこで今回のキーワードでは、若い人向けに分かりやすく写真植字機について触れてみたい。
昔の文字組版といえば「活版(活字組版)」が基本で、使用されるシステム(機械)の自動化が進み、自動鋳植機メーカー(ライノタイプ社など)が文字業界を引っ張っていた。そして、そのメーカーが写真植字機(通称は写植機、英語名はPhototypesetter)を開発するのである。欧文は基本文字幅が異なるプロポーショナルであり、真四角をベースとする邦文とは根本的に異なっていた。そして大文字と小文字が混在するのが基本で、例えばPepeという単語では、デザイナーのこだわりによっては大文字のPに小文字のeを潜り込ませたい場合(食い込み、カーニング処理という)もある。活字だったら不可能?(活字そのものを不自然に削るしかない)なのだが、写真的に処理すれば簡単にカーニング処理も可能になる。
その後、時代は活字から写植の時代になり(ホットタイプからコールドタイプへ)、自動化を経てDTP時代へと突入するわけである。自動化された写植機を電算写植機と呼んでいるが、同様にScitexに代表される画像処理システムをCEPS(セップス)と呼んで、文字と画像の統合は「文字業界(写植)が主導するのか?」「画像業界(製版)か??」で争っていた。だが、何のことはない、統合の名誉はDTPにアッサリ持っていかれてしまった。電算写植の時代は、今から思えば非常に短かった。
100年前に邦文写植機を開発
日本での写植機開発の歩みは、森澤信夫氏(モリサワの創業者)が当時在籍していた星製薬の製品における文字再現向上のために欧米の写植機を研究し、1924(大正13)年7月24日に邦文写植機の特許を出願、同時期に星製薬に在籍していた石井茂吉氏(写研の創業者)と協力して邦文写植機を完成させた。森澤氏は機械エンジニア、石井氏はデザイナーという良いペアだったが、互いに独立して西(明石、大阪)と東(東京・大塚)で写植機メーカーを始めたのだ。そしてDTPの時代になり、「フォントをDTP化するか?しないか??」で明暗が大きく変わってしまったのは、周知のとおりである。
欧文フォントに比べて和文フォントの文字数は桁違いに多いが、文字が素抜けになっているガラス板からレンズ系を通して印画紙に露光すれば倍率などは自由自在であるし、シリンドリカル(かまぼこ型)レンズを入れれば長体・平体が簡単に実現できる。変形光学系を使えば斜体文字も可能であり、ガラス板を交換すれば文字数も増やせる。自由度が非常に高いのだ。
邦文写植機の送りや文字の大きさは、活版で使用していたインチ系ではなくミリ系を採用し、4分の1mm(= Quarter mm = 0.25mm)を1級(略すときは「Q」を使用)として、文字の大きさなどの単位とした。行間などの送りは歯(歯車のイメージだと思うが、略すときは「H」を使用)と表現したが、同様に0.25mmが基本であった。
(専務理事 郡司 秀明)