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レタッチマンはアナログ思考

※本記事の内容は掲載当時のものです。

「センス」という言葉がよく使われる。

「いいセンスのスキャナオペレーターが需要な役割をする。」
「あのレタッチマンはセンスがいい。」

という具合に・・・。この場合の「センス」とは単に「感覚」とか「色彩感覚」というよりも広い意味でいうのであり、「総合技術力」、すなわちトータルなノウハウのようなものをいうのだと思う。

そもそもレタッチマンはアナログ思考人間である。遠く描版、湿板時代から、レタッチマンは、原稿のもつ色彩情報を連続調(アナログ)としてとらえ、印刷再現において、最も効果的な色演出を設計してきた。

人工着色_人着の技術とは、無彩色のモノトーンをカラー化して色再現するという想像的な作業である。そこには色彩設計の段階で、光と影というか、イメージというか、いまだハッキリとデジタル化されていない人間の想像力(イメージ力)のようなものが重要な役割をする。その点は、一般アーチスト、アルチザン(職人)の作品の創造の初期的段階とよく似ている。人着のレタッチマンは、日頃さまざまな色彩として眼に映る自然の色に復元する・・・・というような能力を持っていたと思う。

現在の製版の主流は「カラー原稿通り、画像再現する」ということが大部分である。人着の場合は、若干の色指定のある場合もあるが、主として画像再現と着色効果は「レタッチマンにまかせる」ということである。「犬の眼」は見るものがモノトーンに映ると聞いたことがある。「犬の眼」を「人間の眼」に映るものに色演出するのが、人着レタッチマンの仕事なのである。

レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子と散歩をしていた。途中、ダ・ヴィンチは路傍の石を拾って持ち帰った。弟子は「そんな石どうするのですか」と聞くと、ダ・ヴィンチは微笑するだけであった。それからしばらく日を経て弟子の前にダ・ヴィンチは美しいヴィナスの石像を見せたという。人は「路傍の石からヴィナスが誕生した」とダ・ヴィンチを讃えた。

路傍の石からヴィナスを生み出すような技術、そのような創造力、想像力、色彩設計力、美的素養は、人着レタッチマンの「センス」にかかっていた。

2台のインスタマチックカメラを用意して、1台でモノクロ写真を写し、1台でカラー写真を写せば、人着レタッチの色演出がよくわかると思う。

赤いチューリップはモノクロ写真では中間調のグレーに映り、紺系の洋服はシャドウ寄りのグレーに映る。明るいオレンジ、グリーンなどは中間以下のグレーになる。

人着レタッチマンはそれらを読みこんで色設計し、パーミストン(粒子の細かい磨き粉のようなもの。湿板ポジの調子を薄くするとき使用する。今の網ポジの減力液にあたる)、グラファイト(鉛筆の粉のような黒粉、湿板ポジの調子を濃く、強くするときに使用する)、鉛筆、けずり針、消しゴムなどの用具で画像再現を行った(用具については後述する)。

『続・レタッチ技術手帖』(社団法人日本印刷技術協会、坂本恵一)より
(2003/03/28)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

ミフネの人相変わる–レタッチマンの泣き笑い

※本記事の内容は掲載当時のものです。

スキャナ時代の現在は、電子製版による画像再現性が良く、C、M、Y版を刷るとほとんど画像再現は決定的となる。Bk版は補助的役割となり、画像のミドルトーンからシャドウ部をしめるスケルトン版(骨版)となっている。
また、レタッチマンもBk版にあまり神経を使わない。人物、肌物の場合に例をとれば、現在は、C、M、Y版を刷れば、仕上がりの80~90%はきまる。ものによってはBk版なしでもある程度の仕上がりが保証できるからである。

ところが湿板の場合はBk版が印刷されるまでは、C、M、Y版によって色調は出てはいるが、全体像は、しまりのないボヤーッとしたものであった。Bk版が印刷されて、いわゆる人物の目、鼻だちがハッキリとして、完成された画像として定着するのである。「人物肌物」の場合はBk版はC、M、Y版より重要な役割をした。

時間もBk版のレタッチに半日から1日かかった。もっとも、その頃は、湿板ポジレタッチに2~3日、ネガレタッチを含めると1台の製品レタッチに1週間かかったのである。(念のため私の先輩レタッチマンに電話して確かめると、湿板レタッチの手の早い人で1か月7台、遅い人だと20日に1台というレタッチマンもいたという)。
カラー口絵および写真2を参照されたい。これは「日本誕生」とかいう題名の東宝映画のチラシの外国語版だったと思う(今から25年くらい前の校正刷である)。

 司葉子が天照大神(あまてらすおおみかみ)、三船敏郎が日本武尊(やまとたけるのみこと)を演じている。モノトーンの印画紙で合成された写真が原稿である(原稿はここに掲載されたモノクロ写真だと思ってもらえばよい)。

通常HB製版時代の製版の主導権はレタッチマンにあって、カメラマンは、C、M、Y、Bk版のポジネガを撮影し1版ごとにレタッチマンを呼び,確認をとる。湿板レタッチの上手・下手は第1にこのポジの撮り方の指示(設計)で決定的となる。

すなわち上手なレタッチマンは、「できるだけ写真の階調を活かして、ハンドワーク(加筆)をしないような版を撮る」、その場合、今流にいいかえれば、1枚のモノクロ写真を手にして、眼をつぶると、頭の中のイメージコンダクターがスイッチONとなり、写真2に例をとれば「八頭の蛇(八岐大蛇<ヤマタノオロチ>)はダークグリンにする、司葉子の天照大神の衣装はピンク系、三船敏郎の衣装は白と茶系、背景の山肌は草ネズミ系と茶のボカシにする……」とまあ頭の中のブラウン管にカラー画像となって再現するのである。


写真2

今でも「一枚のカラー写真をいかに効果的に印刷再現するか」という画像再現設計は、製版の心臓部の役割であり、プリンティングディレクターの重要な判断業務である。「色再現」に対して、今でもレタッチマンが敏感なのは伝統的に「色演出」について、責任をもってきたからであろう。

一方、人口着色の下手なれタッチマンとは、イメージが貧困で、ポイントがつかめず色演出能力がなく、効果的なC、M、Y、Bk版撮り方がわからないレタッチマンをいう(現在のスキャナ時代でも同じことがいえるのではないか)。

そのためにM、Y版のカブリの多すぎるのを撮ったり、C、Bk版のコントラストの少ない版を撮ったりする。そしてやたらとポジにハンドワークを加え、写真の調子をこわしてしまうのである(現在、ドットエッチングのポイントがわからず、やたらとドットエッチングして、カラーの色バランスをくずしてしまうレタッチマンと似ている)。

写真2の話に戻ろう。この日本武尊のスタイルをした三船敏郎のモノクロ写真は、今までの映画に主演した武士姿や現代劇タイプとは異なり、どうも三船敏郎らしくない風貌なのである。
C、M、Y版のポジ修整を終えてBk版をレタッチしてなんとか形を作ったのだが、三船敏郎に似ていない。ヘアースタイルがいつもの映画と異なるせいなのか?鉛筆で描きすぎたのか?(後述するが湿板のポジのBk版は、製版用鉛筆とグラファイイト粉とグラファイト用ハケで加筆し、写真の階調をこわさずにレタッチしてゆくのである)。やむを得ず、せっかく仕上がった三船の顔をベンゾールでふきとって、もとに戻し、もう一度慎重にC版を並べながら作りなおしたのである。

いま見ると、背景の原始の山の噴水と溶岩の流れは、モノトーンには写っていないものを赤く作り、日本武尊と天照大神の曲玉<マガタマ>のネックレスは黄、紫、草、赤と色演出している。校正刷の見栄えを考えて派手な色にしたのであろう。

写真3、4を参照されたい。モノクロ写真ではわかりにくいが、大映映画「静と義経(新・平家物語)」のスチル写真を人工着色で製版したものである。原稿が印画紙ではなく、乾板からおこしたせいか粒状性や写真的階調がよく出ている。写真3の淡島千景、香川京子、菅原謙二の3人の俳優スチルは私がレタッチしたもので、写真4の中村雁二郎、淡島千景の2人のスチルは私の先輩がレタッチしたものである。


写真3


写真4

いま見ると先輩のレタッチのうまさがよくわかる。写真3の私の方は、男の顔も女の顔もあまり差がないが、写真4の先輩の方は、男の顔と女の顔に差をつけている。女の肌色も時代劇らしく白っぽく仕上がっている。背景の壁の色も左右に変化をつけ、全体に写真の調子をこわさず、ソフトに仕上げている。

写真3の私の方は、全体にやや硬調で、描きすぎがある。この写真は25年も前の製品なのに菅原謙ニ(義経)の持つ刀を消しゴムでボカシながらC、M、Y、Bk版をきりぬいたことや、背景のぼやけた柱のY版をボカシながら残し、壁をアイ系のいろにしたことなどを覚えている。

『続・レタッチ技術手帖』(社団法人日本印刷技術協会、坂本恵一)より
(2003/03/28)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

描版は近代レタッチのルーツ

※本記事の内容は掲載当時のものです。

湿板以前になると戦前の技術で、石版<セキバン>印刷や描版<カキハン>になる。現在これらの技術を体験されておられる方は60歳以上の方と思われる。私は目撃者として描版を知っている。それは文字通り、網点を点描で作成するというものである。原稿、原画から、アタリ版(輪郭の版)を丸針と紅がらで作り、それをたよりに絵柄を作成するという気が遠くなるような原始的方法の技術である。

徳川時代の歌麿や北斎の版画作成の彫師たちまで遠くさかのぼらなければならなくなるが、近代レタッチのルーツとは、この描版の技術者たちをいうのではないか!

「徒手空拳」という言葉があるが、現在のコンピュータ化された製版機器に比べれば、描版とは全く原始的手づくりで画像再現にチャレンジした技術といえよう。

現在の画像再現性に比較して、その頃の製品は、稚拙にも思えるだろうが、画像再現のための有効な製版機器はゼロに近い時代の中で、ハンドワークとわずかな生産手段で製版した描版技術者は尊敬されるべきであろう。
「すべての色を網点に換算する能力」は、レタッチマンにもスキャナオペラーターにも必要であると「レタッチ技術手帖」(日本印刷技術協会刊)に私は書いた。描版技術者はイメージコンダクターも、色分解されたセパネガもなく、自己の色彩感覚のみを頼りに色再現をしたのだ。

私は30cm角の網目スクリーン(孔版で使用するようなもの)にルーラー(ローラーのこと)でインキをつけ、親指や、布を巻いた指で、巧みにジンク版(亜鉛版)に「アミフセ」している描版技術者の姿を目撃している。今から思えば「職人芸」ともいうべき世界ではあるが、あの親指からC、M、Y版のモアレを計算した網点を作成し、色再現する技術は驚異的な技術である。イメコンを内臓した「黄金の指」ともいうべきだろう。こうしたハンドワークの器用さは、後のHB製版の人工着色などに受けつがれるのである。

『続・レタッチ技術手帖』(社団法人日本印刷技術協会、坂本恵一)より
(2003/03/28)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

フィルターを頭脳に内臓していたレタッチマン

※本記事の内容は掲載当時のものです。

現在は、スキャナオペレーターが画像保証の役割をし、色分解されたセパポジ(ネガ)などをいちいちレタッチマンに見てもらって判断することは少ない。スキャナオペレーターの中で優秀なチーフがプリンティングディレクターの役割をし、カラー再現の責任を持っている。

湿板時代は、セパポジあるいは人工着色の4版のポジ撮影の良・否は、レタッチマンの判断にまかされていた。そのために、レタッチマンは、1枚のモノトーンの写真をどのように着色(4色でカラー化した印刷再現をする)するかを、カメラでポジを撮るときから設計していなければならないのである。

プリンティングディレクターの責任は、すべてレタッチマンにあり、人工着色の製版の良否は、そのレタッチマンの色演出設計能力に託されていた。人工着色のレタッチのベテランは、第一にこの色演出設計能力(印刷物再現のイメージ)がすぐれていた。色分解のフィルターの役割を頭脳に内臓し、モノクロの1色写真を、最も効果的なC、M、Y、Bk版に感覚的に頭脳プレーで色分解していたといえよう。

湿板末期には、フィルムマスキングの方法なども応用され、「つめマスク」「あけマスク」など作ってカメラで露光調整されたが(この方法はカメラダイレクト法にひきつがれる)、それまでは、ほとんどトーンリプロダクション(調子再現)は、人工的ハンドワークでレタッチマンが作りあげたのである。

すなわち人工着色においては、1枚のモノクロ写真原稿からカメラで撮り分けるC、M、Y、Bkの4版は、単なる人工着色設計の「アタリ版」程度の役割しかしなかった(もしその4版をNO修製で網撮りし、校正刷を刷れば、やや茶黒い1色写真しか再現されないからである)。

人工着色のレタッチマンは、そのすぐれた色演出設計力によって、第一にできる限り「写真の調子をこわさず,生かして」カラー印刷物を再現する必要があった。そのため、カメラで撮る4版のポジは、できる限り、自己の色再現イメージに都合のよい(レタッチしやすく、写真の調子をこわさず生かしてあまり手を入れなくてすむような)ものにしてもらうことが大切であった。 名人上手といわれた当時のレタッチマンは、このポジの撮り方がうまく、カメラへの指示・設計伝達能力にすぐれていた。

もちろん人工着色の湿板ポジのあげかたにも、ひとつのパターンとか、標準化された方法はあったが、それは、現在のスキャナ時代のカメラワークとはほど遠い原始的なものであった。そのために、カメラワークより、レタッチワークが、調子再現、色演出のイニシアチブを握ることになるのである。このことは、製版において、色演出、調子再現のイメージの決定権がレタッチに集中していることを意味している。

スキャナ時代の現在でも、校正刷に対する関心、色演出や訂正(修整)効果への反応にレタッチマンが敏感なのは、湿板時代から「仕上がりの品質」は、レタッチの責任というウエートが高かったからである(責了で下版の最終責任が絵rタッチにあるということもある)。

さて、私がレタッチ見習いの頃、このような人工着色の技術は驚異的であり、神秘的にさえ見えた。その頃、レタッチ技術の修得は(終戦後も)、先生・弟子という徒弟関係でマスターしてゆくのが通常のシステムであった。

レタッチの先輩(先生)にカメラでポジが撮れるとついてゆくのだが、たとえば人物のモノクロ写真を人工着色でカラー化して仕上げる場合、どのようにY版、M版のポジを撮り、どのようなC版、Bk版を撮ってよいものか、かいもくわからなかった。先輩のうしろについて、先輩がカメラマンに指示したり、撮り直したりしているのを見ながら覚えてゆくしか方法はなかった。

レタッチのテキストなどはもちろんなく、カメラワークも現在のように計数化、コンピュータ化されたものではなかった。多少のデータはあっても、今日のようなものではなかった。レタッチマンとカメラマンの呼吸が合うというか、判断力が良いというか、そうした感覚のすぐれた技術者が、名人上手といわれたスペシャリストであったのである。

『続・レタッチ技術手帖』(社団法人日本印刷技術協会、坂本恵一)より
(2003/03/28)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

40年間咲き続けた湿板法という名の花

※本記事の内容は掲載当時のものです。

1枚のモノクロ写真がある。そのモノクロ写真からC、M、Y、Bkの4色を使用してカラー印刷物に色再現するのが人工着色の技術である。

人工着色の可能性は、日本人の手さきの器用さ、工芸的センスによって拡大され、実用化されたものと思われる。版画や日本画・染色・織物・陶芸などに伝統的に養われてきた、繊細にして華麗な技術は、外国より輸入した写真製版の技術を日本的ユニークさで開花ささせた。その特長的なものがHBプロセス法である。この方法は、アメリカで写真製版法の特許をとったウイリアム・ヒューブナーとブライシュタインの頭文字のHとBを組合わせたものである。通常、湿板レタッチ法は、このHBプロセスをいう。

湿板写真法は日本では「なま撮り写真」とか「ガラス写しの写真」と呼ばれた。湿板写真とは文字通り、感光板が濡れている時に感光する写真で、その主薬は沃度化合物を主体とした、いわゆる沃化銀と称するものである。
プロセス製版変遷史(「印刷情報」1981年4月号)の中で、山下喜代治氏は次のように語っている。

写真撮影用の感光剤沃度コロジオンを塗布する硝子板(今のようなポリエステルフィルムではなく、その時分は種板といって、撮影用の写真版は全部磨き硝子板である)の洗浄と、卵白水溶液の下引き作業が準備作業の一部だが、これがなかなか大変な仕事であった。俗に『硝子板洗い3年』といわれるくらい骨が折れた。」

ガラス板洗いは、当時の見習いカメラマンの修行のひとつとされていたのである。

表1
表1:技術革新の主要な年表(レタッチ関連)

日本にHB法の特許と製版装置が購入されたのは、大正8(1919)年の7月で、最初のHB式の製版装置は大阪市西淀川区海老江の市田オフセット印刷株式会社の工場に設備された。大正9(1920)年の末ごろからHBプロセスの印刷物が現われるようになった。以来、HBプロセス法(湿板レタッチ)はレタッチ技術の主流として40年間も続いたのである。

この湿板レタッチ40年の技術は末期には、フィルムマスキング法と重曹しながら、昭和35(1960)年頃まで現存した。
日本の製版がフィルム化にたちおくれたのは、太平洋戦争による主要都市の戦災、印刷会社の壊滅、技術情報や資材の入手困難等が影響したといわれている。カラーフィルムが日本で原稿として使われ始めたのは昭和25(1950)年頃であるから、人工着色レタッチは、それまでの印刷物に主要な役割を果たしたといえよう。

表1、表2は、製版の技術革新の要約である。(主としてレタッチに関連のものを中心にまとめた)。

表2
表2:プロセス製版技術革新年表

『続・レタッチ技術手帖』(社団法人日本印刷技術協会、坂本恵一)より
(2003/03/28)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

スキャナ時代に生きる湿版レタッチの技術

※本記事の内容は掲載当時のものです。

最近手がけた仕事に建築会社のパンフレットがある。
その中の絵柄の色について、ユーザーは手すりが白で、ベランダは、黄土色だという。
レタッチマンが、その修整方法を私に相談にきた。

私は、「手すりの部分は、スミ1色で表現して、白くしよう。調子のアイ版スミ版に焼き込むこと。他の色はカットしてしまうことにすればよい。」と指示した。上記の方法で修整したところユーザーは満足し、OKになった。

もう一つの例がある。料理のメニューであるが、カラー原稿は、ピーマンを千切りにしたグリーンが、ほとんど黒っぽく見える。その修整方法は、次のようにした。

思いきってアカ版の網ネガで、グリーンの部分のアカをカットしてしまう。すなわち、ピーマンの調子はスミ1色で表現することにする。
校正刷を入れると、C、M、Y版までは、多少不自然に見えるが、Bk版が入ると落ちついて、ダークグリーン系に発色した。

以上の例の問題解決は、湿版時代の色演出技術が生かされている。
湿版技術の中でも、人工着色(略して人着<ジンチャク>)の方法は、日本の独特な工芸的感覚、色演出力を駆使した技法で、外国ではあまり例を見ないものである。人工着色の技術とは、1色のモノトーンの写真原稿から4色(C、M、Y、Bk)のカラー印刷物を再現する湿板法時代のレタッチ技法である。スキャナ時代の現在、レタッチマンが使用している技術は、先輩レタッチマンから伝わっているものが多い。

しかし、スキャナ時代の若きレタッチマンはそのルーツを知らず、また、そのレタッチ技術が、スキャナ時代に有効に使用されていることも知らない。「温故知新」という言葉がある。「故<フル>きを温<タズ>ねて新しき知る」という意である。

今日のスキャナ時代のレタッチ技術は、一夜にしてできあがったものではなく、長い製版の歴史の中で技術革新を重ね、うけつがれ、発展してきたものである。

1980年代はメカトロニクスの時代であるといわれる。トータルスキャナは、今までのレタッチ技術では不可能と思われる平網細工やモンタージュを可能にしている。しかも、ブラウン管上でシミュレーションしながら修整、色演出、レイアウトすることができる。

そのような時代の到来の中でも、湿版レタッチから受けつがれて効果的レイアウト技術、色演出ドットエッチング技術は生かされ重要性を増すであろう。
それは映像を通し、シミュレーションされた画像やレイアウトも、最終的には、紙にインキで刷ったもので評価されるからである。人間の眼(視覚判定)で感覚的に評価するということが印刷においては、決定的な役割をする以上、レタッチの色演出能力は、仕上りの品質に大きく影響を与えるからである。

『続・レタッチ技術手帖』(社団法人日本印刷技術協会、坂本恵一)より
(2003/03/28)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

『続・レタッチ技術手帖』 発刊の言葉

※本記事の内容は掲載当時のものです。

坂本恵一氏が、社団法人印刷技術協会・協会賞を受賞され、「レタッチ技術手帖」を世に問うたのは、丸三年前のことである。レタッチといえば、複雑で一般人にはわかりにくい製版の専門技術であるにもかかわらず、本書は、レタッチ以外の印刷人からも熱狂的に迎えられた。

その原因は、知られざるレタッチ技術のノウハウがはじめて体系的に描かれたことによるが、それだけでなく、レタッチ=製版の司令部=色修整・演出者と位置づけ、機械化の中で見失われがちな、人間の生きた技術の価値を技術者自身が発見した点にあろう。

今回、月刊プリンターズサークルに、「続・レタッチ技術手帳」掲載の企画をすすめるにあたって、坂本氏に特にお願いしたのは、

  1. レタッチの語り部として、生きたレタッチ技術変遷の稗史(はいし)を、専門家以外でも興味深くわかりやすく読めるよう、エピソードを多くまじえて執筆する。
  2. 執筆にあたり、過去のものとしてでなく、現状の技術・今後の方向とのかかわりという観点を常にベースにおく。

の2点であるが、このむずかしい編集部からの注文をみごとにこなし、坂本氏は毎月滋味ゆたかな原稿をものにされ、ここに「続・レタッチ技術手帖」が完成するにいたった。

本書を発刊するにあたっては、「マイクロエレクトロニクス時代において機械化・コンピュータ化でできない、人間でなければできない技術とはなにか」のテーマのもとに、「トータルスキャナ時代のレタッチ技術の展望」の章を加筆していただいた。

より高品質の、プロの印刷物が求められる今日、本書が印刷・製版技術者はもちろん、すべての印刷人からご愛読いただけるものと確信する次第である。

1983年12月15日
社団法人 日本印刷技術協会 出版部

『続・レタッチ技術手帖』より
(2003/03/28)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

「第三の眼」――はじめに

※本記事の内容は掲載当時のものです。

「続・レタッチ技術手帖」が発刊されることになったのは、日本印刷技術協会の出版部の皆様の御尽力と、読者の皆様の 御声援のおかげである。

私が文学青年じみていた頃、一生の間に1冊の本を出したいと思っていた。私にとって日本印刷技術協会との出会いは幸運であり、ここに2冊目の本が出版できることとなった。深く感謝したい。

さて、《この湿板時代からトータルスキャナ時代まで》を書くについて、私は、目的を次の点にしぼった。

第1に知られざるレタッチのユニークな伝承的色演出技術を、生き生きとよみがえらせること。

第2に、過去を語るのではなく、コンピュータ時代に生きている修整テクニックを紹介し、現状とクロスすること。

第3に、現在使用されている色演出の方法のルーツをさぐり、その応用編を展開すること。  そのことは、印刷の技術史でありながら、そこに生きる人間の記録であり、画像演出にあけくれする印刷技術者の悩み・喜び・苦しみの血の通ったドラマでもある。

「マシンでできるものはマシンにまかせ、人間でなくてはできないことを人間がやる」ということが、コンピュータ時代の品質管理の基本テーマといってよい。

草創期のレタッチマンが、マシンらしいマシンもなく徒手空拳という状況の中で、画像再現に挑み、すぐれた印刷物を現在に残しているという事実は、人間の可能性を感じさせ、勇気を与えてくれる。それは、変貌する技術革新の今日の中で技術者達の生きてゆくよすがとなり、道標となるであろう。先輩たちのすぐれた技術を掘りおこすことは、トータルスキャナシステムをはじめとする、すぐれたコンピュータ画像処理ができる今日、手ばなしでコンピュータにもたれかかるなという警告となり、人間の色演出センスを磨くべきであるというメッセージを意味しよう。

印象派に影響を与え、今日でも世界で芸術的評価の高い浮世絵師の中で、歌麿、北斎などの名を知らない人はいない。が、歌麿、北斎達を世に送り出した天才的アルチザン達、「彫り師」「刷り師」の名を知る人は少ない。

歴史はこの「影の部分」を語ろうとしない。印刷文化史とは、名もなく、貧しく、すぐれた技術をもった印刷技術(能)者の沈黙の歴史であろうか。

めまぐるしいコンピュータ時代の技術革新の中で、人間の、人間による、人間のための技術として生き残るものは何か。印刷における伝統的技術の中で、継承され、変貌しつつ、発展してゆくものは何か。

私は執筆中いつも自分に問いかけていた。

「人間が紙の上でインキで刷ったものを見るあいだは《色を見る眼》は生きつづけるであろう。そして洗練された色感覚の持ち主は優れたカラーマッチャー(インキの色出しの名人)のように、エリートとしての重要な役割をするであろう」そう言い聞かせながら書きつづけた。

スキャナ時代の現在、よくオペレーターのセンスがいい、勘がいいと言う。勘とは、アナログのように聞こえるが、もとをただせばデジタル情報の集約されたものではないのか。印刷技術(能)者の中では、そうした感覚のすぐれたエキスパートが多い。

それは「見えないものを見る」というような能力でもある。カトマンズの山々には、「眼の寺」といわれる寺院がある。「眼の寺」は三つの眼を持ち、第三の眼は、人々が寝静まった夜も見開かれて、民衆を見守るといわれている。

印刷技術(能)者にとって「第三の眼」とは想像力であり、色演出力であり、遠く日本の芸術的、工芸的伝統にはぐくまれ、培われてきた血の流れのようなものといえるだろう。そして、この「第三の眼」は、技術革新に対応し、変貌して不死鳥のようによみがえる美意識でもあるのだ。

「ばらの樹に、ばらの花咲く、何事の不思議なけれど――」 と歌ったのは、詩人北原白秋である。

たしかな存在感として、そこに印刷がばらの花のように咲き誇るためには、コンピュータマシンのみでは不可能であろう。それを使う人間の「第三の眼」が印刷文化に輝きを与えるものと信じるからである。

1983年12月
坂本 恵一

(『続・レタッチ技術手帖』より)
(2003/03/18)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

写真植字機の発明略史(3)電算制御自動機の開発

※本記事の内容は掲載当時のものです。

はじめて長かった欧文写植機の苦難の道程を突破したのは、アメリカのインタータイプ会社であった。

この会社はフォトセッタ(Fotosetter)の名で、その写植機を1948年に発表したが、売り出されたのは1950年であった。

インタータイプはライノタイプとほとんど同様なホットメタル(活字)行鋳植機械で、各文字の単母型が各字多数ずつ、マガジンのたてみぞの中に入っており、オペレーターが機械の一部分であるキーボードを操作すると、母型がマガジンから降りてきて、それが1行ぶん集合される。そこでハンドルを押すと、その母型群がひと塊になって鋳造部分に移動し、1行ひと塊にできた活字スラッグ(棒)が鋳造される。鋳造を終えた母型は自動的に、もとの古巣のマガジンの中に戻される、じつに巧妙な仕組みの機械である。

フォトセッタは、このホットメタル用の単母型の横っ腹に丸い穴をあけて、そこにA、B、Cと1字1個ずつ透明ネガ種字をはめこんだものを使った。そして鋳造装置の代りにカメラ装置をおきかえ、1行ぶん並んだ母型(フォトマット)から、1個ずつの母型が上にとび上がり、ロールフィルムに順次写されていくのである。図30はその原理の図解である。人間のキーボード作業であるから、出力はその手腕に左右されるが、1分間480字は写せると称した。

図30
図30

私が1960年にインドのニューデリーの印刷局を見学したさい、役人たちがさも自慢そうに、この機械を見せてくれたが、その機械はどっさりほこりをかぶっていた。とはいえ、フォトセッタは世界的に何百台か売れたようである。むろん今では製造していない。しかしこれが実用欧文機のパイオニアであった、という意味で歴史に残るだろう。

つづいて、インタータイプ会社は、テープ操作の本文専用機フォトマティックを発売した。また約10年ほどおくれて、イギリスのモノタイプ会社も、モノタイプのメカニズムを換骨奪胎した、モノフォトという第1世代写植機を作った。これもとくにヨーロッパの書籍植字用に売れたようである。

この二つは、どちらも機構的に洗練されていた、ホットメタル鋳植機の写植版という、新味と創意にとぼしい、間に合せ的な機械である。その運動はまったく機械的で、19世紀的発想のものであった。

ここに第2世代機の先ぶれともいえる、非常に独創的な発明があらわれる。

フランスのリオン市で、アメリカのMIT(マサチュセッツ工科大学)のために、情報・特許サービスを仕事としていたルネA・イゴンネット(Higon-net)は1944年の春、ある1人のリオンの印刷業者を招いた。彼は印刷について何も知らなかったので、いろいろの方法を聞きただした。そしてアマチュア写真家であったイゴンネットは、とくにオフセットに興味をもち、オフセットなら活字を使わずとも、サーフェース・タイポグラフィ(表面的活版)ができるではないかと思った。

この考えをスイスのタイポン会社に伝えてやったが、タイポンの返事は否定的だった。おそらく、それなら自分でそのサーフェース・タイポグラフィを、写真的に作る方法を考えようと思ったのであろう。電気通信技術者のルイM・ムワロー(Louis M.Moyroud 図31)と協同し発明にとりくんだ。

図31
図31

彼らは活字の植字機の働きが、電話交換台の仕事に似ていることに気づいた。根がそのほうの技術者だから、メカニズムはムワローが担当したのであろう。彼らの構想は文字の記憶配列を電気的に(電子的にではない)やろうということから出発した。

1945年から作業にかかり、6月15日に有名なエコーレ・エチェンヌ大学で、2人は原型機械を権威者たちの前で実演した。それはまことにお粗末な道具であったが、これが今の自動(電算)写植機の芽生えなのであった。

しかし、フランスでは企業化が思うようにいかないので、2人は1946年にアメリカに渡ってデモンストレーションした。そして、マサチュセッツのケンブリッジに、「印刷研究財団」という組織が、出版・新聞・印刷・植字関係者の出資で作られ、2人の「リソマット」という名の特許権はこの財団の手に移り、1948年それはフォトン会社の創立とともにまた移り、W・W・ガースが社長に就任した。(このガースはあとで、コンピュグラフィック会社を創業し、安くて重宝な写植機を売り出して、この世界に1つの革命を起こしたことは有名は話である。)

最初の実用機フォトン200シリーズは、1956年に発売された。それは1台の機械にキーボードと、制御装置と写真装置を複合したもので、その運動はディジタル・コンピュータでない、電磁的なリレーやスイッチ群で支配されているののであった。しかし、この機械は自動機の機構基盤をうちたてた。図32はその要部写真、レンズターレット、文字選択装置を中心としてなる自動機の1つの典型が、このフォトン200型で実現されたのであった。(それがコンピュータ支配に変わるのは時間の問題にすぎなかった。)フォトンで写植された最初の本はラインハート出版社の「驚異の昆虫世界」であったが、編集者は校正訂正に手こずったという。

図32
図32

不幸なことに、この200シリーズは多目的写植機をめざし、当時の自動写真植字機のマーケットが、新聞界であることを見通すことができなかったために、機械の売れゆきは牛の歩みのようにもどかしかった。(あとでフォトンは500型を作ってこの市場をめざす。)

ついでに書くとフォトン会社は、負債2600万ドルをかかえ、1974年11月破産法の適用をうけ、ダイモ・インダストリース会社に買収された。発明者の1人ムワローは、現在スイスのボブスト会社に移り、同社の写植機の改良にたずさわっている。もうひとりのインゴネットは、フランスでルミタイプ(フォトンのヨーロッパ名)会社をやっていたようだが、現在はどうなっているかわからない。

日本の自動写植機サプトンN型が発表されたのは、このフォトン200型におくれることわずか4年、1960年であった。それはす早い写研の開発力を示すもので、この年日本にも自動写植の道がひらかれた。その作動原理と機構は、フォトン200型そっくりであった。

『印刷発明物語』(社団法人日本印刷技術協会,馬渡力)より
(2002/09/30)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

馬渡 力 (まわたり つとむ)プロフィール

馬渡 力 (まわたり つとむ)

明治39年佐賀県に生れる。
昭和3年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。印刷雑誌社勤務。
昭和21年印刷学界出版部を創業代表代表取締役、日本印刷学会常務理事を兼任。
昭和31年日本印刷共同研究協会常務理事、昭和42年社団法人日本印刷技術協会常務理事、研究委員長、副会長を歴任。
昭和62年(1987)8月31日逝去。享年81歳。

著書に印刷技術入門、印刷ダイジェスト、カラースキャナ入門、翻訳カラーレプロダクションの理論など。

(参考)著者情報:国立国会図書館サーチ