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フィルターを頭脳に内臓していたレタッチマン

※本記事の内容は掲載当時のものです。

現在は、スキャナオペレーターが画像保証の役割をし、色分解されたセパポジ(ネガ)などをいちいちレタッチマンに見てもらって判断することは少ない。スキャナオペレーターの中で優秀なチーフがプリンティングディレクターの役割をし、カラー再現の責任を持っている。

湿板時代は、セパポジあるいは人工着色の4版のポジ撮影の良・否は、レタッチマンの判断にまかされていた。そのために、レタッチマンは、1枚のモノトーンの写真をどのように着色(4色でカラー化した印刷再現をする)するかを、カメラでポジを撮るときから設計していなければならないのである。

プリンティングディレクターの責任は、すべてレタッチマンにあり、人工着色の製版の良否は、そのレタッチマンの色演出設計能力に託されていた。人工着色のレタッチのベテランは、第一にこの色演出設計能力(印刷物再現のイメージ)がすぐれていた。色分解のフィルターの役割を頭脳に内臓し、モノクロの1色写真を、最も効果的なC、M、Y、Bk版に感覚的に頭脳プレーで色分解していたといえよう。

湿板末期には、フィルムマスキングの方法なども応用され、「つめマスク」「あけマスク」など作ってカメラで露光調整されたが(この方法はカメラダイレクト法にひきつがれる)、それまでは、ほとんどトーンリプロダクション(調子再現)は、人工的ハンドワークでレタッチマンが作りあげたのである。

すなわち人工着色においては、1枚のモノクロ写真原稿からカメラで撮り分けるC、M、Y、Bkの4版は、単なる人工着色設計の「アタリ版」程度の役割しかしなかった(もしその4版をNO修製で網撮りし、校正刷を刷れば、やや茶黒い1色写真しか再現されないからである)。

人工着色のレタッチマンは、そのすぐれた色演出設計力によって、第一にできる限り「写真の調子をこわさず,生かして」カラー印刷物を再現する必要があった。そのため、カメラで撮る4版のポジは、できる限り、自己の色再現イメージに都合のよい(レタッチしやすく、写真の調子をこわさず生かしてあまり手を入れなくてすむような)ものにしてもらうことが大切であった。 名人上手といわれた当時のレタッチマンは、このポジの撮り方がうまく、カメラへの指示・設計伝達能力にすぐれていた。

もちろん人工着色の湿板ポジのあげかたにも、ひとつのパターンとか、標準化された方法はあったが、それは、現在のスキャナ時代のカメラワークとはほど遠い原始的なものであった。そのために、カメラワークより、レタッチワークが、調子再現、色演出のイニシアチブを握ることになるのである。このことは、製版において、色演出、調子再現のイメージの決定権がレタッチに集中していることを意味している。

スキャナ時代の現在でも、校正刷に対する関心、色演出や訂正(修整)効果への反応にレタッチマンが敏感なのは、湿板時代から「仕上がりの品質」は、レタッチの責任というウエートが高かったからである(責了で下版の最終責任が絵rタッチにあるということもある)。

さて、私がレタッチ見習いの頃、このような人工着色の技術は驚異的であり、神秘的にさえ見えた。その頃、レタッチ技術の修得は(終戦後も)、先生・弟子という徒弟関係でマスターしてゆくのが通常のシステムであった。

レタッチの先輩(先生)にカメラでポジが撮れるとついてゆくのだが、たとえば人物のモノクロ写真を人工着色でカラー化して仕上げる場合、どのようにY版、M版のポジを撮り、どのようなC版、Bk版を撮ってよいものか、かいもくわからなかった。先輩のうしろについて、先輩がカメラマンに指示したり、撮り直したりしているのを見ながら覚えてゆくしか方法はなかった。

レタッチのテキストなどはもちろんなく、カメラワークも現在のように計数化、コンピュータ化されたものではなかった。多少のデータはあっても、今日のようなものではなかった。レタッチマンとカメラマンの呼吸が合うというか、判断力が良いというか、そうした感覚のすぐれた技術者が、名人上手といわれたスペシャリストであったのである。

『続・レタッチ技術手帖』(社団法人日本印刷技術協会、坂本恵一)より
(2003/03/28)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

40年間咲き続けた湿板法という名の花

※本記事の内容は掲載当時のものです。

1枚のモノクロ写真がある。そのモノクロ写真からC、M、Y、Bkの4色を使用してカラー印刷物に色再現するのが人工着色の技術である。

人工着色の可能性は、日本人の手さきの器用さ、工芸的センスによって拡大され、実用化されたものと思われる。版画や日本画・染色・織物・陶芸などに伝統的に養われてきた、繊細にして華麗な技術は、外国より輸入した写真製版の技術を日本的ユニークさで開花ささせた。その特長的なものがHBプロセス法である。この方法は、アメリカで写真製版法の特許をとったウイリアム・ヒューブナーとブライシュタインの頭文字のHとBを組合わせたものである。通常、湿板レタッチ法は、このHBプロセスをいう。

湿板写真法は日本では「なま撮り写真」とか「ガラス写しの写真」と呼ばれた。湿板写真とは文字通り、感光板が濡れている時に感光する写真で、その主薬は沃度化合物を主体とした、いわゆる沃化銀と称するものである。
プロセス製版変遷史(「印刷情報」1981年4月号)の中で、山下喜代治氏は次のように語っている。

写真撮影用の感光剤沃度コロジオンを塗布する硝子板(今のようなポリエステルフィルムではなく、その時分は種板といって、撮影用の写真版は全部磨き硝子板である)の洗浄と、卵白水溶液の下引き作業が準備作業の一部だが、これがなかなか大変な仕事であった。俗に『硝子板洗い3年』といわれるくらい骨が折れた。」

ガラス板洗いは、当時の見習いカメラマンの修行のひとつとされていたのである。

表1
表1:技術革新の主要な年表(レタッチ関連)

日本にHB法の特許と製版装置が購入されたのは、大正8(1919)年の7月で、最初のHB式の製版装置は大阪市西淀川区海老江の市田オフセット印刷株式会社の工場に設備された。大正9(1920)年の末ごろからHBプロセスの印刷物が現われるようになった。以来、HBプロセス法(湿板レタッチ)はレタッチ技術の主流として40年間も続いたのである。

この湿板レタッチ40年の技術は末期には、フィルムマスキング法と重曹しながら、昭和35(1960)年頃まで現存した。
日本の製版がフィルム化にたちおくれたのは、太平洋戦争による主要都市の戦災、印刷会社の壊滅、技術情報や資材の入手困難等が影響したといわれている。カラーフィルムが日本で原稿として使われ始めたのは昭和25(1950)年頃であるから、人工着色レタッチは、それまでの印刷物に主要な役割を果たしたといえよう。

表1、表2は、製版の技術革新の要約である。(主としてレタッチに関連のものを中心にまとめた)。

表2
表2:プロセス製版技術革新年表

『続・レタッチ技術手帖』(社団法人日本印刷技術協会、坂本恵一)より
(2003/03/28)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

スキャナ時代に生きる湿版レタッチの技術

※本記事の内容は掲載当時のものです。

最近手がけた仕事に建築会社のパンフレットがある。
その中の絵柄の色について、ユーザーは手すりが白で、ベランダは、黄土色だという。
レタッチマンが、その修整方法を私に相談にきた。

私は、「手すりの部分は、スミ1色で表現して、白くしよう。調子のアイ版スミ版に焼き込むこと。他の色はカットしてしまうことにすればよい。」と指示した。上記の方法で修整したところユーザーは満足し、OKになった。

もう一つの例がある。料理のメニューであるが、カラー原稿は、ピーマンを千切りにしたグリーンが、ほとんど黒っぽく見える。その修整方法は、次のようにした。

思いきってアカ版の網ネガで、グリーンの部分のアカをカットしてしまう。すなわち、ピーマンの調子はスミ1色で表現することにする。
校正刷を入れると、C、M、Y版までは、多少不自然に見えるが、Bk版が入ると落ちついて、ダークグリーン系に発色した。

以上の例の問題解決は、湿版時代の色演出技術が生かされている。
湿版技術の中でも、人工着色(略して人着<ジンチャク>)の方法は、日本の独特な工芸的感覚、色演出力を駆使した技法で、外国ではあまり例を見ないものである。人工着色の技術とは、1色のモノトーンの写真原稿から4色(C、M、Y、Bk)のカラー印刷物を再現する湿板法時代のレタッチ技法である。スキャナ時代の現在、レタッチマンが使用している技術は、先輩レタッチマンから伝わっているものが多い。

しかし、スキャナ時代の若きレタッチマンはそのルーツを知らず、また、そのレタッチ技術が、スキャナ時代に有効に使用されていることも知らない。「温故知新」という言葉がある。「故<フル>きを温<タズ>ねて新しき知る」という意である。

今日のスキャナ時代のレタッチ技術は、一夜にしてできあがったものではなく、長い製版の歴史の中で技術革新を重ね、うけつがれ、発展してきたものである。

1980年代はメカトロニクスの時代であるといわれる。トータルスキャナは、今までのレタッチ技術では不可能と思われる平網細工やモンタージュを可能にしている。しかも、ブラウン管上でシミュレーションしながら修整、色演出、レイアウトすることができる。

そのような時代の到来の中でも、湿版レタッチから受けつがれて効果的レイアウト技術、色演出ドットエッチング技術は生かされ重要性を増すであろう。
それは映像を通し、シミュレーションされた画像やレイアウトも、最終的には、紙にインキで刷ったもので評価されるからである。人間の眼(視覚判定)で感覚的に評価するということが印刷においては、決定的な役割をする以上、レタッチの色演出能力は、仕上りの品質に大きく影響を与えるからである。

『続・レタッチ技術手帖』(社団法人日本印刷技術協会、坂本恵一)より
(2003/03/28)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

『続・レタッチ技術手帖』 発刊の言葉

※本記事の内容は掲載当時のものです。

坂本恵一氏が、社団法人印刷技術協会・協会賞を受賞され、「レタッチ技術手帖」を世に問うたのは、丸三年前のことである。レタッチといえば、複雑で一般人にはわかりにくい製版の専門技術であるにもかかわらず、本書は、レタッチ以外の印刷人からも熱狂的に迎えられた。

その原因は、知られざるレタッチ技術のノウハウがはじめて体系的に描かれたことによるが、それだけでなく、レタッチ=製版の司令部=色修整・演出者と位置づけ、機械化の中で見失われがちな、人間の生きた技術の価値を技術者自身が発見した点にあろう。

今回、月刊プリンターズサークルに、「続・レタッチ技術手帳」掲載の企画をすすめるにあたって、坂本氏に特にお願いしたのは、

  1. レタッチの語り部として、生きたレタッチ技術変遷の稗史(はいし)を、専門家以外でも興味深くわかりやすく読めるよう、エピソードを多くまじえて執筆する。
  2. 執筆にあたり、過去のものとしてでなく、現状の技術・今後の方向とのかかわりという観点を常にベースにおく。

の2点であるが、このむずかしい編集部からの注文をみごとにこなし、坂本氏は毎月滋味ゆたかな原稿をものにされ、ここに「続・レタッチ技術手帖」が完成するにいたった。

本書を発刊するにあたっては、「マイクロエレクトロニクス時代において機械化・コンピュータ化でできない、人間でなければできない技術とはなにか」のテーマのもとに、「トータルスキャナ時代のレタッチ技術の展望」の章を加筆していただいた。

より高品質の、プロの印刷物が求められる今日、本書が印刷・製版技術者はもちろん、すべての印刷人からご愛読いただけるものと確信する次第である。

1983年12月15日
社団法人 日本印刷技術協会 出版部

『続・レタッチ技術手帖』より
(2003/03/28)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

「第三の眼」――はじめに

※本記事の内容は掲載当時のものです。

「続・レタッチ技術手帖」が発刊されることになったのは、日本印刷技術協会の出版部の皆様の御尽力と、読者の皆様の 御声援のおかげである。

私が文学青年じみていた頃、一生の間に1冊の本を出したいと思っていた。私にとって日本印刷技術協会との出会いは幸運であり、ここに2冊目の本が出版できることとなった。深く感謝したい。

さて、《この湿板時代からトータルスキャナ時代まで》を書くについて、私は、目的を次の点にしぼった。

第1に知られざるレタッチのユニークな伝承的色演出技術を、生き生きとよみがえらせること。

第2に、過去を語るのではなく、コンピュータ時代に生きている修整テクニックを紹介し、現状とクロスすること。

第3に、現在使用されている色演出の方法のルーツをさぐり、その応用編を展開すること。  そのことは、印刷の技術史でありながら、そこに生きる人間の記録であり、画像演出にあけくれする印刷技術者の悩み・喜び・苦しみの血の通ったドラマでもある。

「マシンでできるものはマシンにまかせ、人間でなくてはできないことを人間がやる」ということが、コンピュータ時代の品質管理の基本テーマといってよい。

草創期のレタッチマンが、マシンらしいマシンもなく徒手空拳という状況の中で、画像再現に挑み、すぐれた印刷物を現在に残しているという事実は、人間の可能性を感じさせ、勇気を与えてくれる。それは、変貌する技術革新の今日の中で技術者達の生きてゆくよすがとなり、道標となるであろう。先輩たちのすぐれた技術を掘りおこすことは、トータルスキャナシステムをはじめとする、すぐれたコンピュータ画像処理ができる今日、手ばなしでコンピュータにもたれかかるなという警告となり、人間の色演出センスを磨くべきであるというメッセージを意味しよう。

印象派に影響を与え、今日でも世界で芸術的評価の高い浮世絵師の中で、歌麿、北斎などの名を知らない人はいない。が、歌麿、北斎達を世に送り出した天才的アルチザン達、「彫り師」「刷り師」の名を知る人は少ない。

歴史はこの「影の部分」を語ろうとしない。印刷文化史とは、名もなく、貧しく、すぐれた技術をもった印刷技術(能)者の沈黙の歴史であろうか。

めまぐるしいコンピュータ時代の技術革新の中で、人間の、人間による、人間のための技術として生き残るものは何か。印刷における伝統的技術の中で、継承され、変貌しつつ、発展してゆくものは何か。

私は執筆中いつも自分に問いかけていた。

「人間が紙の上でインキで刷ったものを見るあいだは《色を見る眼》は生きつづけるであろう。そして洗練された色感覚の持ち主は優れたカラーマッチャー(インキの色出しの名人)のように、エリートとしての重要な役割をするであろう」そう言い聞かせながら書きつづけた。

スキャナ時代の現在、よくオペレーターのセンスがいい、勘がいいと言う。勘とは、アナログのように聞こえるが、もとをただせばデジタル情報の集約されたものではないのか。印刷技術(能)者の中では、そうした感覚のすぐれたエキスパートが多い。

それは「見えないものを見る」というような能力でもある。カトマンズの山々には、「眼の寺」といわれる寺院がある。「眼の寺」は三つの眼を持ち、第三の眼は、人々が寝静まった夜も見開かれて、民衆を見守るといわれている。

印刷技術(能)者にとって「第三の眼」とは想像力であり、色演出力であり、遠く日本の芸術的、工芸的伝統にはぐくまれ、培われてきた血の流れのようなものといえるだろう。そして、この「第三の眼」は、技術革新に対応し、変貌して不死鳥のようによみがえる美意識でもあるのだ。

「ばらの樹に、ばらの花咲く、何事の不思議なけれど――」 と歌ったのは、詩人北原白秋である。

たしかな存在感として、そこに印刷がばらの花のように咲き誇るためには、コンピュータマシンのみでは不可能であろう。それを使う人間の「第三の眼」が印刷文化に輝きを与えるものと信じるからである。

1983年12月
坂本 恵一

(『続・レタッチ技術手帖』より)
(2003/03/18)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

写真植字機の発明略史(3)電算制御自動機の開発

※本記事の内容は掲載当時のものです。

はじめて長かった欧文写植機の苦難の道程を突破したのは、アメリカのインタータイプ会社であった。

この会社はフォトセッタ(Fotosetter)の名で、その写植機を1948年に発表したが、売り出されたのは1950年であった。

インタータイプはライノタイプとほとんど同様なホットメタル(活字)行鋳植機械で、各文字の単母型が各字多数ずつ、マガジンのたてみぞの中に入っており、オペレーターが機械の一部分であるキーボードを操作すると、母型がマガジンから降りてきて、それが1行ぶん集合される。そこでハンドルを押すと、その母型群がひと塊になって鋳造部分に移動し、1行ひと塊にできた活字スラッグ(棒)が鋳造される。鋳造を終えた母型は自動的に、もとの古巣のマガジンの中に戻される、じつに巧妙な仕組みの機械である。

フォトセッタは、このホットメタル用の単母型の横っ腹に丸い穴をあけて、そこにA、B、Cと1字1個ずつ透明ネガ種字をはめこんだものを使った。そして鋳造装置の代りにカメラ装置をおきかえ、1行ぶん並んだ母型(フォトマット)から、1個ずつの母型が上にとび上がり、ロールフィルムに順次写されていくのである。図30はその原理の図解である。人間のキーボード作業であるから、出力はその手腕に左右されるが、1分間480字は写せると称した。

図30
図30

私が1960年にインドのニューデリーの印刷局を見学したさい、役人たちがさも自慢そうに、この機械を見せてくれたが、その機械はどっさりほこりをかぶっていた。とはいえ、フォトセッタは世界的に何百台か売れたようである。むろん今では製造していない。しかしこれが実用欧文機のパイオニアであった、という意味で歴史に残るだろう。

つづいて、インタータイプ会社は、テープ操作の本文専用機フォトマティックを発売した。また約10年ほどおくれて、イギリスのモノタイプ会社も、モノタイプのメカニズムを換骨奪胎した、モノフォトという第1世代写植機を作った。これもとくにヨーロッパの書籍植字用に売れたようである。

この二つは、どちらも機構的に洗練されていた、ホットメタル鋳植機の写植版という、新味と創意にとぼしい、間に合せ的な機械である。その運動はまったく機械的で、19世紀的発想のものであった。

ここに第2世代機の先ぶれともいえる、非常に独創的な発明があらわれる。

フランスのリオン市で、アメリカのMIT(マサチュセッツ工科大学)のために、情報・特許サービスを仕事としていたルネA・イゴンネット(Higon-net)は1944年の春、ある1人のリオンの印刷業者を招いた。彼は印刷について何も知らなかったので、いろいろの方法を聞きただした。そしてアマチュア写真家であったイゴンネットは、とくにオフセットに興味をもち、オフセットなら活字を使わずとも、サーフェース・タイポグラフィ(表面的活版)ができるではないかと思った。

この考えをスイスのタイポン会社に伝えてやったが、タイポンの返事は否定的だった。おそらく、それなら自分でそのサーフェース・タイポグラフィを、写真的に作る方法を考えようと思ったのであろう。電気通信技術者のルイM・ムワロー(Louis M.Moyroud 図31)と協同し発明にとりくんだ。

図31
図31

彼らは活字の植字機の働きが、電話交換台の仕事に似ていることに気づいた。根がそのほうの技術者だから、メカニズムはムワローが担当したのであろう。彼らの構想は文字の記憶配列を電気的に(電子的にではない)やろうということから出発した。

1945年から作業にかかり、6月15日に有名なエコーレ・エチェンヌ大学で、2人は原型機械を権威者たちの前で実演した。それはまことにお粗末な道具であったが、これが今の自動(電算)写植機の芽生えなのであった。

しかし、フランスでは企業化が思うようにいかないので、2人は1946年にアメリカに渡ってデモンストレーションした。そして、マサチュセッツのケンブリッジに、「印刷研究財団」という組織が、出版・新聞・印刷・植字関係者の出資で作られ、2人の「リソマット」という名の特許権はこの財団の手に移り、1948年それはフォトン会社の創立とともにまた移り、W・W・ガースが社長に就任した。(このガースはあとで、コンピュグラフィック会社を創業し、安くて重宝な写植機を売り出して、この世界に1つの革命を起こしたことは有名は話である。)

最初の実用機フォトン200シリーズは、1956年に発売された。それは1台の機械にキーボードと、制御装置と写真装置を複合したもので、その運動はディジタル・コンピュータでない、電磁的なリレーやスイッチ群で支配されているののであった。しかし、この機械は自動機の機構基盤をうちたてた。図32はその要部写真、レンズターレット、文字選択装置を中心としてなる自動機の1つの典型が、このフォトン200型で実現されたのであった。(それがコンピュータ支配に変わるのは時間の問題にすぎなかった。)フォトンで写植された最初の本はラインハート出版社の「驚異の昆虫世界」であったが、編集者は校正訂正に手こずったという。

図32
図32

不幸なことに、この200シリーズは多目的写植機をめざし、当時の自動写真植字機のマーケットが、新聞界であることを見通すことができなかったために、機械の売れゆきは牛の歩みのようにもどかしかった。(あとでフォトンは500型を作ってこの市場をめざす。)

ついでに書くとフォトン会社は、負債2600万ドルをかかえ、1974年11月破産法の適用をうけ、ダイモ・インダストリース会社に買収された。発明者の1人ムワローは、現在スイスのボブスト会社に移り、同社の写植機の改良にたずさわっている。もうひとりのインゴネットは、フランスでルミタイプ(フォトンのヨーロッパ名)会社をやっていたようだが、現在はどうなっているかわからない。

日本の自動写植機サプトンN型が発表されたのは、このフォトン200型におくれることわずか4年、1960年であった。それはす早い写研の開発力を示すもので、この年日本にも自動写植の道がひらかれた。その作動原理と機構は、フォトン200型そっくりであった。

『印刷発明物語』(社団法人日本印刷技術協会,馬渡力)より
(2002/09/30)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

馬渡 力 (まわたり つとむ)プロフィール

馬渡 力 (まわたり つとむ)

明治39年佐賀県に生れる。
昭和3年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。印刷雑誌社勤務。
昭和21年印刷学界出版部を創業代表代表取締役、日本印刷学会常務理事を兼任。
昭和31年日本印刷共同研究協会常務理事、昭和42年社団法人日本印刷技術協会常務理事、研究委員長、副会長を歴任。
昭和62年(1987)8月31日逝去。享年81歳。

著書に印刷技術入門、印刷ダイジェスト、カラースキャナ入門、翻訳カラーレプロダクションの理論など。

(参考)著者情報:国立国会図書館サーチ

写真植字機の発明略史(2)英文機の開発はなぜおくれたか

※本記事の内容は掲載当時のものです。

1840年には写真術が発明されていた。フランス人ダゲールが銀板写真を完成したのは1839年のことである。1851年には、イギリス人F・S・アーチャーによって、湿板写真が発明された。写真術の発達と普及によって、グーテンベルク以来の活字という、強大な堡塁の一角に攻撃を加えよう、という大それた考えが人々の脳裏に宿りはじめたのは時の勢いというものである。

当然のことだが、初期の発明者たちの着想は非常にプリミティブで素朴なものであった。基本的な構想は反射か透過の文字の種字から、1字ずつ感光材料の上に写し並べていくということであった。その感光材料がまだ未熟で幼稚な時代であったことから、その人たちのなかにはせっかくの工夫を生かすことができず、ほかの手段に道を変えねばならない人も出た。ひと口にいうなら、西洋での写真植字機の着想は、写真術の発明直後に出発したといえる。

これらの初期の発明者たちを、最も苦しめた問題は、アルファベットの活字(発明者らは活字の字を規範とした)が、文字によって幅が違うということであった。

活字は小なりといえども、1個の実体であり5感で感触し認識できるものである。それゆえにこそ、いくら字幅の違う活字で文章を綴っても、整然と揃った行に組むことができる。ところが、写真植字は盲仕事である。感光材の上のどこに、今写した字が写ったか、感光材をどれだけ移動させたら、次の字を写せばよいか、欧文につきものの分かち組み(語と語の間をあけて組むこと)をして、行末をきちんと揃えるにはどうしたらよいか--こんなことがかれらの工夫に重大な障害としてたちはだかった。森沢が「日本の活字は4角だ」と発見したとき、彼はなぜ外国の発明者らが手こずっているかを直感すると同時に、日本文の字なら成功できると確信した。このことは、彼我の間にこのような手ごわい障壁の有無があることを、なによりもよく証明している。

実際的な発明活動は、19世紀末期から今世紀初めにかけて、工業の中心地イギリスに起こった。A・C・ファーガソン、E・ポツォルト、フリースーグリーンなどが手を染める。

フリースーグリーン(William Fraiese-Greene)は発明狂の1人で、写真植字機だけではなく、前史的映画カメラとその映写機の特許をとり公開実演もした。エディソンの映画の発明には、その特許が障害になった。3色映画映写機も発明した。

彼は発明史上きわめて興味ある人物である。発明に対する非凡な才能と、機械工作に対する驚くべき器用さをそなえていたにもかかわらず、物理と化学の初歩すら理解できない、一種の変わり者の天才であった。

漱石の「門」という小説に、インキいらずの印刷の話がでてくる。「・・・・この印刷術は近来英国で発明になったもので電気の利用にすぎない。電極の一極を活字に結びつけ、他の一極を紙に通じて、その紙を活字におしつけさえすればすぐできる。」

この英国の発明というのが、フリースーグリーンの電気的インキ不要印刷術である。1897年に特許をとり、シンジケートを組織して、大々的に実施をはかったが、インキ会社の猛反対と、「世人の無理解」(ある外国誌の言葉)のために蹉跌し、この事業に金銭を使い果して、1921年5月5日、満身瘡痍の姿でロンドン(?)の裏町に窮死した。

世人の無理解とは無理解もはなはだしい。彼の方法は一種の電解発色法で、とうてい普通の活版印刷にかわり得るものではなかった。世人はむしろそれを理解したから、彼に出資しなかったのである。

漱石が渡英した1900年ごろは、このインキいらずの印刷法が、ジャーナリズムを賑わせている最中であった。

第1次大戦と第2次大戦の間に、A・E・バウトリー、アーサー・ダットン、オーガスト・ハンター(この人の発明が森沢にアイデアをあたえた)などの努力があり、1925年頃かなり本格的なシステムの、ウーハータイプが出現、アメリカの発明の天才ヒューブナーも特許をとった。どれもものにならずじまいに終わった。

『印刷発明物語』(社団法人日本印刷技術協会,馬渡力)より
(2002/09/30)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

写真植字機の発明略史(1)先鞭をつけた日本の写植機

※本記事の内容は掲載当時のものです。

写真植字機は世界中で日本で一番早く実用化された。この事実は日本の印刷関係者なら知らないひとはいないだろう。それも大正の末期から昭和のとっかかりのことである。すべての工業技術と製造機械が「西洋」から輸入されるか、その西洋から入った機械を模範にして、国産化された機械と、それを使う技術に依存していたこの古い時代に、ひとり、写真植字の機械だけが日本で全く独創的に開発され、先進諸国にさきがけて実用化されたということは、わが国の産業機械全体を見渡しても、非常に稀有の事例に属する。

しかも、この日本の写真植字機は、その以前に長い先人たちの苦闘の歴史があったわけではなく、突如として発明者の頭に宿り、その着想が具体化したものである、という点でも発明史上珍しいケースに該当する。

星製薬会社で働いていた青年森沢信夫が、会社の人からイギリスの写真植字機(その人は「光線を使うタイプライタのようなものだ」と表現した)の話を聞き、異常な発明熱にとりつかれて、欧文(英文)の活字を買って来て、いじくっているうちに、「日本の活字(の格)は四角だ!」という発見をしたとき、彼はすでに自分の発明の成功を確信した。 

森沢は明治34年3月23日、兵庫県太田村(姫路の西約8キロ)で、豊治郎、このみの次男に生まれた。小学校卒業で学歴とてないが、生来発明の才能に恵まれ、子供の頃父の経営する鉄工所を遊び場にして、たえず何かを作っていた。彼が作った蒸気機関の模型をのせた蒸気船が池で走り、模型飛行機が飛んだ。

ある機縁から星製薬社長星一に拾われ、大正12年1月この工場につとめた。星は前年外遊した際、新鋭製薬機械を購入して帰った。そのなかにMAN(エム・アー・エン)製の輪転機一台と、付属機械類がふくまれていた。星は工場内に印刷部を新設して、PR新聞の類を印刷するつもりでこの輪転機を買ってきた。

その輪転機は分解されて、30個の箱に詰めて送附され、青写真すらついていなかった。星はその組み立てという難事業を、「印刷部主任」の肩書きといっしょに森沢に命じた。印刷に無経験の森沢は、結局この機械と格闘のすえそれを組立ててしまった。そのとき彼は活字による組版が、いかに原始的かつやっかいな仕事であるを知らされた。

星製薬の図案部長をしていた長沢青衣(角三郎)から、オーガスト・ハンターの英文写真植字機の話を聞いたのは、大正12年大震災の直後であった。あのやっかいな活字が、「光線のタイプライタ」によって、置換されることの便益が、印刷部での経験から直感的に彼の頭にひらめいた。

小さい模型を作り、構想を進めて、大正13年7月24日、「写真装置」の名で申請した写真植字機の特許は、翌14年6月23日、第64453号として認可された。特許権者(発明者)森沢信夫(図1)、特許権者石井茂吉(図2)。

図1:森沢信夫氏
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図2:石井茂吉氏
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石井茂吉は明治20年7月27日東京王子に生まれ、東京帝国大学機械工学科を卒業したエリートである。神戸製鋼に勤めていたとき、星製薬が出した高級技術者募集の新聞広告を見て応募し、選ばれて大正12年に入社した。森沢は長沢をはじめ学識者の石井に、発明の構想を語り相談しているうちに、石井との関係ができ、石井はこの発明に少なからぬ興味と関心をよせるようになった。石井は大正13年退社して、家業の米穀商を営んだ。

森沢は石井の資金に頼って、特許がおりたその発明を実現に移すべく、13年の暮に他2名を加えた4名での協同事業契約書に調印した。試作プロトタイプ機械が、大正14年10月学士会館で公開され、大きい反響を呼び新聞、雑誌に大発明として紹介された。

実用機第1号が昭和4年10月共同印刷に入り、つづいて東京、大阪の大手5社に納入された。しかし、これは大手印刷会社がなか義侠的に買ってくれたもので、ほとんど実用されず、その後需要は途絶した。実用機完成まで、機械本体と機構は森沢の創意と努力により、文字板とレンズ系は石井の苦心によって、唇歯輔車の関係を保ちながら事業は進められた。

しかし、肝腎の機械が売れないことは、経営について責任を負うことを契約した石井家の経済を圧迫した。その窮迫時代2人の事業を支えるために、石井夫人は惨憺たる苦労を続けた。

一方、外界の2人に対する評価と対応のなかで、真の発明者である森沢はつねに無視された。工学士石井の肩書の蔭に森沢の存在はかすんだ。この転倒した外部の評価に傷ついた森沢は、経済の逼迫とともに協同事業の推進を絶望した。そして昭和8年の春、彼は石井と訣別した。

写植時代の開花は、大戦後爆発的な形で現われた。オフセット印刷の大波涛に乗って、それまでほとんどかえりみられなかた写真植字機が、一躍時代の寵児となった。今から約50年前、それの新生時代に誰が今日のこの盛況を予想し得ただろうか。

日本の手動写植機は、初期のそれとは隔世の感があるほど進化している。しかし、基本的な機構の本元は、森沢の創意を踏襲している。それは外国にも類をみない独特なもので、「写真植字」という概念こそ、外国からの借物であれ、具象化された機械そのものは、外国人の知慧に負うところはない。

この偉業をなしとげた森沢と石井は、ともに栄誉をもって、また経済的にむくいられている。発明の功績により森沢は、昭和46年、民間産業功労者としてはかず少ない勲3等瑞宝章を下賜されたほか、印刷文化賞などいくつもの褒賞をうけている。石井は昭和35年その文字に対して菊池寛賞をうけ、昭和38年4月5日死去、生前の功労により従5位勲5等に叙された。森沢は現在80歳で頑健、いぜんとして改良と発明に忙しい。

森沢の業績はドイツの、グーテンベルク博物館に認められ、かれがこしらえた模型、実用1号機、そして最近の写植機の写真を並べた3つのパネルが、1980年フォトン1号機などがおかれている部屋の壁に掲げられた(図3)。

図3
図3

『印刷発明物語』(社団法人日本印刷技術協会,馬渡力)より
(2002/09/30)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)

カラースキャナ創世紀の素描(3)―栄冠はタイム社の上に

※本記事の内容は掲載当時のものです。

ハーディ博士の最初の出願日から、わずか3ヶ月ほどおくれた1937年1月、アレキサンダー・マーレイ(A.Murray)とリチャード・モース(R.Moes)という人が「カラー写真術」という、おおまかな名の特許を出願した。この二人はコダックのグラフィックアーツ研究部に勤務していた。そしてこの特許こそ、正真正銘のカラースキャナの世界最初の発明であった。

このチームはカラー原稿(透過・反射)を、光で走査し、その光をフィルタで三分割し、コンピュータで電子的にマスキングし、UCRをかけ、三色の電流からブラック版ネガを合成露光し、四色分解ネガを同時に作るという、現在のスキャナの基本機能を、この最初の特許に盛りこんだ。

走査露光のメカニズムも、平盤式のもの、円筒式のものを例示していた。その円筒式のものは、後日のPDIのスキャナと大差のない構想であった。

スキャナの大事な役割の一つである、色修整ということも、写真マスキングと同じ原理を、電子的なものに変えたもので、ハーディ博士のように、複雑な理論数式を解くというものとは違っていた。

マーレイは1935年に「近代マスキング法」を発表した。濃度計による数値データにもとづいて、色分解物の色を補正する科学的アプローチの基礎をきずいた。また世界最初の実用的オレンジ・コンタクトスクリンを開発した。かれはカラー複製印刷に新しい世紀をもたらした貢献者のひとりである。

コダック会社は世間には発表しなかったが、1940年頃には試作機を作っていた。その間およびあと、コダックの優秀な技術者たちは、続々とスキャナの特許を出願した。

これに眼をつけたのがタイム・ライフ社である。

雑誌「タイム」は、エール大学出のルースとハッデンという青年によって、1923年に創刊された。この会社は着想と編集と経営の非凡さで、隆々と発展しつづけた。

「生活を見よう、世界を見よう、大事件を目撃しよう」という、ルースの考えたスローガンのもとに、画期的な写真報道週刊誌「ライフ」が創刊された。1936年11月23日づけの創刊号は、ニューススタンドで奪い合いになり、増刷につぐ増刷をもってしても需要をさばききれなかった。

タイムという会社はたんに出版にあまんぜず、他の出版会社よりも卓越するためには、製造技術でも他を制圧しなければならない、という考えをもって、技術研究所をスプリングデールに建設し、いろいろな方法、材料を開発した。

「ライフ」のカラー印刷に革新的なシステムを・・・・、タイム社はタイムリーに開発された、このコダックのカラースキャナに着目した。1946年、このスキャナの特許権一切は、コダックからタイム社に移譲された。スプリングデール研究所は、鋭意その改良完成に努力し、1950年8月6台の実用スキャナを製作した。その最初の機械はHR型というもので、図1は少し改良されたMR型である。タイムの子会社PDI会社(印刷開発会社)は、アメリカをはじめヨーロッパ各地にスタジオを作り、このスキャナをおいて、色分解の求めに応ずるという商売を開始した。それは売らない、リース制なら貸す、さもなければPDIのスタジオを利用下さい、という政策を堅持した。(今では東京の、プリンティング・ディベロップメント会社がその本拠となって、最新のシステムを売っている。)

図1:MR型スキャナ

コダックがスキャナの権利をゆずったのは、機械をつくって売るよりか、スキャナが普及すれば感光材料が売れる、というポリシーによるものであろう。「カメラはフィルムのバーナーだ」と名言を吐いた会社なのだ。

このスキャナは分解スピードが早い、シャープネスが抜群だという評判をとった。世界中にPDIスキャナの名が知れ渡った。コダックが種をまきそだてた苗は、亭々たる大樹になって伸びた。

PDIの栄光は、もひとつのライバルの末路とは対照的なものとなった。

ほかのメーカーもカラースキャナの開発を志していた。なかでもイギリスのクロスフィールド会社は、スキャナトロンという色修整スキャナを、ドイツのルドルフ・ヘル会社はカラーグラフという機械を、あいついで1955年ごろに発表した。スキャナトロンは、2個のブラウン管を使って、カメラで分解した連続調ネガから、色修整を施したポジを作る機械で、これはハーディ博士らの「色修整機」と同じ線を行くものである。日本にも3台ほど入り、せかいに数十台売れたが、この色修整機というのは、過渡期の機械で今では滅亡してしまった。

ヘルのカラーグラフも最初のもの(図2)は、色修整機であったが、色分解兼用機に進化し、これも日本に入った212型というカラーグラフの平面走査方式のスキャナと巨大な真空管式制御盤は、威風あたりを圧するものであったが、あまりにも鈍行なため、やがて製造がうちきられた。PDIをまねたスキャナで、スキャナカラーというのが、フェアチャイルド会社から売出された。これは余り売れず製造がうちきられた。

図2:ヘルのカラーグラフ

PDIスキャナは買うことを許されないし、自家設備として格安なスキャナがほしい__この要望にこたえた、いわゆる一色式の小型スキャナが、イギリスのK・S・ポールという会社から発表されたのは1964年である。(図3)

図2:ヘルのカラーグラフ

これは今日の一般的なスキャナの先駆であり、クロスフィールドは、ダイヤスキャン101型をヘル会社はクロマグラフ100番台シリーズを、1965年にあいついで発表した。

こういった創世記の一色式スキャナの比較表が手もとに残っているからおめにかけよう。現在の諸スキャナと比較すると、隔世の感がある。

どれもフィルムは寸法35×45cmである。

  K・S・ポール クロマ186型 ダイヤスキャン101型
走査線数(1インチにつき) 250、500、1000 500、1000 333、500、1000
走査速度 75秒 47秒 50秒

(↑2.5cmを露光する時間、どれも500線で比較)

大日本スクリーン会社から国産の、一色式スキャナのスキャナグラフの初号が発表されたのは1964年であった。 

『印刷発明物語』(社団法人日本印刷技術協会,馬渡力)より
(2002/09/30)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)