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印刷原点回帰の旅 ―(5)近代印刷術の起こり―
キーワード: 聖書 ラテン語 ルネッサンス 活版印刷 人文主義 自然科学 宗教改革 メディア
今回は、西洋の印刷について見ていこう。西洋での印刷のはじまりは、中国と比べるとずっと遅く、1445年のグーテンベルクの活版印刷の発明を待たなくてはならない。中国の拓本と比べるなら約2,500年、木版と比較しても約7~800年もの後のことだ。
前回のコラムで書いたように、皇帝の権威や正統性を表し広めるために拓本という印刷が始まったことを考えると、西洋でも王や司教らが同じような発想で印刷物を作っていても決しておかしくないし、聖書という印刷に値する聖典もあった。それに加え、紙が中国から西洋に伝わったように、印刷物も同時に伝わっていたはずである。にも関わらず、印刷は西洋ではなかなか発展しなかった。
話は、ローマ帝国まで遡る。ローマ帝国では、313年のキリスト教の公認、380年の国教化を経て、キリスト教が力を強める中、395年東西に分割される。これによりキリスト教も事実上、東西教会に分かれ、西ヨーロッパは宗教改革までの約千年もの間、カトリックの支配下に入ることとなった。カトリックが絶対主義的支配を強めていく中で、カトリックは聖書の神聖性を理由にラテン語訳のみしか認めず、聖書の写本作成も修道院で独占した。
そのため、聖書は一部の聖職者しか見られないものとなり、民衆は聖職者から聖書の内容を口で伝えられるだけとなる。聖職者がキリスト教の教義を自己の都合によって解釈し伝えたかどうかは定かではないが、民衆が原典を戻れないのをいいことに、次第に聖職者は堕落していく。そして聖書に書かれている本来の教えである重要な情報は、長い間、民衆へ隠蔽されることになった。
聖書ほどの情報量を持つ本を人間の手で写本にしているため、聖書は絶対数が少なく非常に高価なものとなったのも、民衆から聖書を遠ざけた結果の一つと言えよう。いずれにせよ、情報や情報の特性を伝える手段として印刷が生まれたことから考えると、こういったカトリックの絶対主義的支配は閉鎖性を生み、印刷をうむ土壌を作らなかったと言うことができよう。
実際に印刷が発展するきっかけになったのは、ルネサンスという時代の到来であった。十字軍派遣によって、東ローマ帝国やイスラム圏に継承されていたギリシア文化や火薬や羅針盤といった多くの発明や技術が西欧に流入し、古代文化の復興、さらには東洋・イスラム文化の西洋への融合というルネサンス機運が高まる。グーテンベルクは、そんな時代に金属活字の開発研究をする金属加工職人であった。
科学的なものを嗜好するルネサンスという時代にあっても、グーテンベルクが最初の印刷物として聖書を選んだのは、聖書が万人にとって神聖なもので、印刷で伝えるべき情報価値が高かったからにほかならない。聖書が今まで民衆が見られなかったものであること、写本より安価に提供できることから、ビジネスとしても成功するモデルになると考え、彼は最初の印刷業を起こすが、これは失敗に終る。聖書は何千ページにもわたる本のため、金属活字を大量に制作する必要があったこと、活版印刷といえども手動だったためハイボリュームの印刷には不向きであったことなどが、その理由として挙げられる。
しかし、活版印刷の発明は後の世界に大きな影響を与えた。彼の技術を受け継いだ者たちは、当時の技術水準にあわせてページ数を減らして部数を増やし安価にしたり、技術開発により手に取りやすい版型に縮小したり、母国語の本を出版したりと、印刷をどんどん改良していく。こうやって印刷は、情報の特性を伝えることより、広範に情報を分散するという機能を大きくしていった。
そして、印刷技術が西欧中に広まることで、印刷はさらに低価格化して知識の普及を促し、ルネサンスの人文主義や自然科学の興隆を助け、宗教改革に大きな役割を果たした。ルターの革新的な考えは、印刷物となって2週間後には国中に、数ヵ月後には西欧中に広がったと言う。これは、印刷が宗教改革という社会現象を政治現象にまで変えうる力をもつ、「メディア」として機能した最初の例である。そして、ジャーナリズムを生む基礎となった。こうやって近代印刷の発明は、現在に至る情報化社会の幕を開けたのである。