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朝日新聞社は、2014年4月20日より夏目漱石の『こころ』を連載開始100年記念として、当時と同じような連載形式で再掲載している。
■新聞紙上にて『こころ』100年ぶりの連載
夏目漱石の『こころ』は、1914(大正3)年4月20日から同年8月11日まで、東京・大阪の『朝日新聞』に連載された小説で、同年9月、岩波書店から刊行された。日本の近代小説の中でも最も読まれた部類に入るだろう。
連載当初と同じく毎日掲載するというのは、新たな挑戦でもあるし、アーカイブとしてのコンテンツを再利用した好例だろう。個人的には、この連載を読みたいがためだけに朝日新聞を購読しようかと思ったほどである。ましてや漱石の研究者、大学院生、卒論で漱石をとりあげる学生諸君などはこのことに興味を持つに違いない。
4月18日には米ミシガン大学で「漱石の多様性」をテーマにしたシンポジウムが3日間の日程で行われたというニュースも入ってきた。
連載は今の読者のために現代仮名遣いにしているが、朝日新聞デジタルの会員限定で、100年前の「こころ」掲載紙面もPDFで見られるようにしている。
ここにはおそらく朝日新聞社による拡販の戦略があるのは容易に想像がつく。ただし漱石という伝家の宝刀を抜いた以上、朝日新聞社は『こころ』の再連載にとどまるだけとは思えない。
■パブリックドメインと電子化で出版ビジネスが変化した
出版物の著作権は作者の死後50年で、もちろん漱石の全作品は版権が切れている。つまりパブリックドメインであり、極端なことを言えばだれが出版しても構わないのである。
友人で島崎藤村の『夜明け前』をiPhone4Sで読破した強者がいる。最初はさすがに疲れたが、それでも徐々に慣れてきたという。それにしても既に50歳に到達した彼が、文庫で全4冊、1596ページにも及ぶ大作をタブレットならまだしもスマホ画面で読み通したことに驚く。しかもただ長いだけでなくかなり難解で読みにくい。
もとは青空文庫なので、無料で『夜明け前』全巻を読んだことになる。新潮文庫で買うと全4冊2808円+税になる。岩波文庫になると3060円+税である。この金額差は大きいだろう。
アマゾンではKindleで売れている電子書籍ランキング100を有料・無料ともに時々刻々と公表している。文化通信社の星野渉編集長が、JAGATプリンティング・マーケティング研究会ミーティング「転換期にある出版業界の最新動向」 で、2013年8月8日のランキングを使用したが、その時の無料1位が堀辰雄の『風立ちぬ』であった。宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』の影響であるが、内容はそんなに堀辰雄とは関係がない。それでも多数ダウンロードされている。
『こころ』はこの時点で8位。にわかには信じがたいが、同じ堀辰雄の『菜穂子』が漱石を抑えて7位にランクインされている。ちなみにこの時の有料の18位がコマブックスの『風立ちぬ』であった。ゴマブックスが堀辰雄を扱うことはこれまでは考えにくかった。パブリックドメインと電子化により新たなビジネスが生まれているのである。
しかも『風立ちぬ』は、紙の書籍である各社文庫本もそれなりに売れている。新潮文庫では、「≪映画大ヒット上映≫堀辰雄の名作が今読まれています!」と謳って映画のポスター画像を使用して、新たな読者層を狙っている。
■マーケティング手法と文学作品の関係
かつての角川書店は「観てから読むか、読んでから観るか」という有名なキャッチコピーでメディアミックス展開をした。当時大流行したのが、森村誠一『人間の証明』で、これまでに単行本や各社に収められた文庫本の合計で770万部を売り上げているという。映画化はもちろん何度もテレビドラマ化され、主題歌、DVD、ブルーレイとそれこそ一粒で何度もおいしいビジネスをしている。
ベストセラーのきっかけは映画化されること以外にも賞を獲ったりすることが挙げられる。さしずめ本屋大賞が現在の代表格であろう。作家の収入増につながる近道とさえ言われている。
大江健三郎がノーベル文学賞を受賞したときには、新潮文庫の増刷が追い付かずに、品切れ状態が続いた。また新潮文庫ならではのスピン(しおり代わりの紐)の貼り付け作業が話題になったほどである。
万人受けするとは思えない大江の小説が面白いかどうかは別にしても、爆発的に売れて出版社に莫大な利益を生み出したことは間違いない。もし村上春樹がノーベル賞を獲ったならば、またも新潮文庫と講談社文庫がパンクするだろう。その村上春樹が好きな作家に漱石をあげているのだから、売り上げに寄与するに違いない。当然出版社以上に印刷会社・製本会社は大忙しになる。
■コンテンツを活かした新たな時代のメディアビジネス展開
朝日新聞が紙面上に『こころ』を再録したのには理由があるはずだ。たんに文学的な意義でサークルやコミュニティを拡大しようとしているだけではあるまい。新聞の購読者増を狙うことはもちろんだが、このことによって『こころ』を再読したいと思う人が増えるはずだ。その人たちに向けて新たなサービスを提供することが可能になる。
このキラーコンテンツをうまく使えば、大きなビジネスになる。出版社や映画会社といったメディア企業だけでなく、カルチャーセンターなどの教育はじめ、流通や小売、製造と組んでもアイディアがいくらでも出てくる。
出版の世界には柳の下にドジョウが三匹くらいはいるので、うまくいけば次は『三四郎』か、もしかしたら『虞美人草』あたりかもしれない。ご存知の方も多いだろうが、当時は三越が虞美人草浴衣を、玉寶堂が虞美人草指輪を売り出し大ヒットした。商魂たくましいが、いまならオムニチャネルでさらに多様な販売促進ができる。虞美人草浴衣の復活なんていまでも売れそうな予感がする。
『こころ』は過去に何度か映画化されているが、必ずしも良い出来だとは思えない。設定を現代にかえたATG版は低予算ながら面白かったが、先生もお嬢さんもKも読者の心に浮かぶイメージとの乖離が必ずある。それは文学の強さかもしれないし、逆に映像の弱点かもしれない。
しかし、もしも宮崎駿が『こころ』を撮れば、この100年前の小説はさらなるヒットにつながる。堀辰雄であれだけ騒がれたのだから漱石になると経済効果は格段の違いであろう。各出版社の売り上げ貢献にもなるし、なんといっても印刷業界にもお金が落ちる。
朝日新聞社が自ら『こころ』の映像を撮ったり、関連商品を販売したっていいのではないか。現在はそういう時代だと思うがいかがなものか。主人公のイメージは最大公約数的になるだろうが、朝日新聞主催コンテストやオーディションをやればいい。大事なのは、絵に描いた餅をどのように実現させるか真剣に考え抜くことだ。だって角川はとっくの昔にやり遂げているのだから、デジタル化が進んだ今日ではできなくはないだろう。
(JAGAT 研究調査部 上野寿)
【プリンティング・マーケティング研究会】
2014年5月13日(火)
変化する新聞折込広告と電子チラシの最新動向2014
時代や消費者意識、メディア環境に合わせ、提供する価値やサービスを変化させる折込広告と電子チラシ。各媒体の最新動向や事例から、今後の展望や「紙」と「デジタル」の強みを生かした棲み分けについて考えます。