30年前にカラーのデジタル化が盛んになってきたときに、いろいろなシステムが開発されたが、アメリカでそれらの品質を云々する時に、月刊誌 National Geographic に使えるかとか、Playboyのセンターフォオールドに使えるか、という表現がされていた。後日Playboy誌がDTPで内製化を始めた時に訪問したことがあったが、センターフォオールドだけは従来の製版で行われていた。100年以上の歴史を持つアメリカのNational Geographic の方は神田の古本屋でよく立ち読みをしたが、製版云々よりも写真として凄いなと思った。その謎は後日に解けた。
National Geographic 誌の転機というのは、イーストマンコダック社が35ミリのカラーフィルムを発明した20世紀前半で、紙面のカラー化に突き進んでいった。といっても製版の話ではなく、カメラをもって世界中を駆け巡って、この光景を残したいという思いで、どうやって水中で撮るか、どうやって空から撮るかなどなど当時普通では撮影できない条件下でもさまざまな工夫をして写真を撮っていったことで、独特のクオリティのグラフィック誌ができあがった。冒険家カメラマンの逸話にはこと欠かない。
後の時代には出版企画、撮影、デザイン、製版、印刷とそれぞれ分業体制ができてしまって、特に印刷製版の人はアウトプットにだけフォーカスして、ノイズをとったり色のバランスを変えてよりきれい見せるとか、見やすいように部分強調するところを発展させてきた。そのノウハウは化学的な処理をするのか、電気的な処理をするのかに依存しないものも多くあるので、普遍的な要素はある。しかし今日のデジタル処理でこのようなノウハウは次第にアルゴリズム化され、デジタルカメラからプリンタまで機器にも実装されることが増えている。
ではもっと普遍的な要素とはどのようなものだろうか? 写真も映画もTVも印刷もビジュアルなシステムの原点は National Geographic の「この光景を残したい」というところにあるだろう。かつては入力から出力までを一連のシステムにせざるを得なかったが、デジタルでクロスメディアな時代においては、入力と出力は切り離されたものとなって、過去の工程別分業ではなく、すべての作業レベルに関係するいくつかの技術になって発達していくだろう。
過去にはアナログプロセスの制約から、実際の色情報がどうであったのかということと、画像がこうあって欲しいという意図が混同されて議論されてきたが、最後の出力意図から遡って入力情報をコントロールする必要はなくなる。別の言い方をすると、なるべくありのままに近い情報記録の方法と、人の色に対するインテント(意図)でその情報操作する方法の開発が必要になる。
しかし人が言う「ありのまま」の中に、その人の意図も入り込みがちなので、個人差が入らない科学的なアプローチをしなければならない。光という物理的な知識はカラーマネジメントの普及とともに今日多くなったが、それに加えて人はどのように色を見ているのかということも、もっと注目すべきではないだろうか。それは、人の主観にそって色の問題を考えるのでなく、人を客観化して色の問題を考えるためである。
関連情報 : 2006年6月1日(木) 色の知識と見え方の科学
2006/05/25 00:00:00